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THERMAE(テルマエ:浴場)Ver.1.10
アントニヌス・ピウスの浴場
【チュニジア:アントニヌス・ピウスの浴場】
100を越える部屋が左右対称に配置されていた
・入浴の習慣:
 共和政時代初期、ローマ人は人前で服を脱ぐのを恥だと考えていたため、各々での入浴が主だった。貧しい民衆の場合は、川の流れや泉の水、または台所のすみに金だらいを置いて顔や手足を洗った。裕福な家庭においても、狭くて暗い小部屋に浴室を設け、週に一度入浴する程度だった。
 それが共和政末期末期に入ると、ギリシア文明の影響を受け、銭湯(バリネア)がつくられるようになる。更に帝政期では、大理石やモザイクの床に、絵画や彫刻で埋め尽くされた壁や天井、プールや美しい庭園、図書館などを備えた大娯楽施設としての公衆浴場へと発展していった。そして浴場は、フォルム、神殿、バシリカ、劇場、円形劇場と並ぶ、ローマ人の生活に不可欠なものへ変化したのだ。

浴場の歴史浴場の主な設備についてローマの10の浴場

浴場の歴史
 前80年の内戦においてポンペイを征服した後、ローマ人はそこで、前4世紀末建造のスタビア浴場に触れ、入浴の魅力を知った。収容人数は数十人という小規模ながらもすでに3種の浴室(熱浴室、温浴室、冷浴室)、脱衣室、運動場、発汗室、マッサージ室などを備えていた。
 共和政末期に、これらギリシア文明の影響を受けて造られた銭湯(バリネア)は、しかしながら、私営で料金は高かった(1セステルティウス(1000円強)。各種サービスを追加すると8倍の2デナリウスにもなった)。またスペースが狭く、大勢の人間が入浴する『公衆浴場』とはかけ離れたものだった。前33年には、このような銭湯がローマ市内に、170程度あった。
 その後、前25年、アグリッパが『公衆浴場』と呼ぶにふさわしい大浴場を、カンポ・マルツィオに建造した。プールや美しい庭園を備えた豪華な浴場だった。しかも料金は無料だった。こうした公衆浴場は、入浴だけを目的とした場にとどまらず、社交の場としても利用されるようになった。
 帝政末期にもなるとローマ市内には、800以上の銭湯に、10の大きな公衆浴場が存在した。しかしながら、キリスト教徒はこうした入浴習慣を蔑んだので、西欧では次第に廃れてしまった。

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浴場の主な設備について(カラカラ浴場より)
◆設備(左右対称に配置されている)
1.入口
2.脱衣室
 (APODYTERIUM:アポデュテリウム)
3.体育場
 (Palestra:パラエストラ)
4.発汗室
 (LACONICUM:ラコニクム)
5.マッサージ室
6.プール
 (NATATIO:ナターティオ)
7.温浴室
 (TEPIDARIUM:テピダリウム)
8.熱浴室
 (CALIDALIUM:カリダリウム)
9.冷浴室
 (FRIGIDARIUM:フリギダリウム)
10.大広間
11.庭園

◆その他
・運動場
 (スタディウム:STADIUM)
・図書館
・貯水槽
1.入口/2.脱衣室
多くの人は、一日の仕事を終えた午後になって、公衆浴場へ出かけた。まず入口を抜け、脱衣室で服を脱ぐ。
3.体育場
中庭の体育場では、ボール競技やレスリングなどをして汗を流す。
4.発汗室
全身に香油を塗って汗をかぎ、金属や象牙でできたブーメランのようなへら(ストリギリス)であかをこすり落とした。(当時、石鹸はまだ十分にはなく、高価なものだった)
5.マッサージ室
マッサージ師やオリーブ油を塗る奴隷、毛抜きや香水係を利用できた。
6.プール
あかをこすり落としたあとは、プールで泳いだ。
7.温浴室
床下に設けられた暖房装置(ヒュポカウストゥム)(*)によって、いつも一定の温度に保たれている。ここで身体をならしてから、更に温度が高い熱浴室へ移動した。また、入浴を終えたあと、体温を調整するためにも利用された。
(*)浴室を暖めるための"床下暖房"の装置。上げ底になった床を板煉瓦の柱で支え、空洞となった床下に温風又は熱風を通した。
8.熱浴室
暖房装置によって足下の床が熱くなっていたので、足にやけどをしないように木製のサンダルを履いた。ここで全身汗だくになりながら、熱水が循環している浴槽につかったり、大理石の泉水(ラブルム)で体をすすいだりした。
9.冷浴室
温浴室、熱浴室、そして冷浴室の3つの浴室を交代で回りながら入浴と談話を楽しんだ。また、熱水と冷水に交互につかることで、新陳代謝が活発になり、体内の不純物が排出された。
10.大広間
公衆浴場の建物は、大広間を中心に複数の部屋を配置していた。大広間は、花崗岩の円柱に支えられた丸天井でおおわれて、見事な彫刻と大理石の噴水で飾られており、談話やゲームを楽しむ人々で溢れた。
11.庭園
入浴を終えた人々は、緑豊かな庭園のすずしい木陰で、友人たちとの散歩や談話を楽しんだ。また、図書館で読書を楽しむ人々もいた。

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ローマの10の浴場
浴場名建造年
概要
面積(m2)収容人数
アグリッパ浴場 BC25 アグリッパにより新市街カンポ・マルツィオに建設されたローマ最初の公衆浴場。このためにアグリッパは水道を引き、隣の人工池(スタグヌム)にも給水し、運河(エウリプス)によって余剰水をテヴェレ川に流した。3種の浴室(熱浴室、温浴室、冷浴室)、発汗室などの基本的な設備に加え、プールや美しい庭園、体育場、読書室やチェス室まで備えていた。浴場内は、ギリシア人の芸術家達を動員しての、美しい壁画や彫像で飾られた。80年,110年に火災の被害にあい、パンテオンと共にハドリアヌス帝によって再建されている(80年の火災の後、修復されているかもしれない)。更に、344〜355年には、コンスタンス帝とコンスタンティウス2世により修復された。 敷地:約1.1万
(80〜100m×120m)
修復後
???
ネロ浴場 AD62頃 同じくカンポ・マルツィオに造られた。浴室や各施設の配置が整然とした左右対称であり、以後すべての浴場の手本となる。227年にセウェルス・アレクサンデルにより修復されている。 建物:約2.3万
(190m×120m)
(修復後)
???
ティトゥス浴場 AD80頃 ネロ浴場の左右対称の設計に準じて、オッピオ丘に建造された小規模な浴場??????
トラヤヌス浴場 AD104頃〜109 トラヤヌス帝の時代に大活躍したダマスクス生まれの建築家アポロドロスの設計によるもので、オッピオ丘に建造された。中央に浴室棟を配し、ギリシア語とラテン語の図書館や談話室などの教養施設を備え、庭園を持ち、カラカラ浴場の前身ともいえるものであった。 敷地:約10万
(330m×315m)
建物:約4万
(212m×190m)
???
スラ浴場 AD???トラヤヌス帝の記念柱ではトラヤヌスの右に位置するスラが、アヴェンティーノの丘に建造した。 410年に起こった西ゴート王アラリックのローマ略奪の後、414年に修復された。 ??????
カラカラ浴場 AD212〜217 浴場は高さ6mの台座の上に造られていて、その下には薪置き場や業務室が設置され、2台の荷車がすれちがうことのできる地下通路が張り巡らされていた。そして、ここでは1万人の従業員が働いていたという。浴場の各部屋は左右対称に配置されたが、性別によって分けられてはおらず混浴だった。浴場の裏手には、階段式の観客席がついた競技場をはじめ、大プール、庭園や散歩道などが設けられていた。537年に東ゴート族王ヴィティギスが街の全水道を断つまで使用された。プールにあった四つの大きな柱の一つは、1563年、フィレンツェのサンタ・トリニタ広場に運ばれた。現在、「正義の柱」と呼ばれている。敷地:約11万
(337m×333m)
建物:約2.5万
(220m×114m)
1600人
デキウス浴場 AD252デキウス帝により、アヴェンティーノの丘、ディアナ神殿の南西に浴場の建設が計画される。完成は帝の死後となる。コンスタンス帝とコンスタンティウス2世により修復されている。また、410年に起こった西ゴート王アラリックのローマ略奪の後、414年にも修復されている。現在、アプスのある部屋が遺っている(70m×35m)。 ??????
ディオクレティアヌス浴場 AD298〜306(9?) ディオクレティアヌス帝の命により造られた帝国最大級の浴場。内部は大広間を中心に、周囲に3種の浴室、運動室、更衣室を備えた。浴場建設の際には、4万人にも及ぶキリスト教徒が強制的に働かされた。 敷地:約14万
(370m×380m)
建物:4.5万
(250m×180m)
3000人
コンスタンティヌス浴場 AD??? クィリナーレの丘に建造された。現在、跡地にはロスピリョージ・パッラヴィチーニ宮が建っている。 ??????
ヘレナ浴場 AD???クラウディア水道を利用していた。セプティミウス・セウェルス帝時代の建造で、火事により焼失している。修復の際、コンスタンティヌス帝の母ヘレナが関わっていたようで、この名がある。16世紀までは、ある程度は残っていたらしいが、教皇シクストゥス5世が、Via Carlo Feliceをつくるために埋めてしまった。今は貯水槽が残るのみである。マッジョーレ門南。 ??????
(*)建造年・面積等のいくつかは、れいさんに情報を提供していただきました。
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