●セルウィウスの城壁 (写真提供:P.M.さん)
セルウィウスの城壁
セルウィウスの城壁
◆説明
 前6世紀、6代目の王セルウィウスは、外部からの侵攻に備えて、濠と土塁による防壁を築いた。しかしながら、この防壁は、前390年のガリア人の侵攻に対して無力であったことより、ローマ人は、より堅固な石造りの城壁に改修する必要性を感じ、その工事を前378年から始めた。
 7つの丘を囲い込むこの城壁は、全長8キロの長さ、高さ約8.5m、厚さは4.5mあったと推定されている。城門は、14カ所に開いており、 その東側は1マイルに及ぶ深さ10mの掘割で補強されていた。ハンニバルはこの城壁のすぐ近くまで迫ってきたが、最終的にこの先へと進むことはなかった。その後、ローマの勢力が拡大していくと、城壁の必要性より、都心部の拡張や交流が優先され、城壁の一部はカエサルらによって壊されていった。
 現在、テルミニ駅の正面に向かって左端に、壊れた凝灰岩の城壁(及びウィミナリスの城門)を見ることができるほか、アウェンティヌスの丘、カピトリヌスの丘、キルクス・マクシムスとカラカラ浴場の間にも、城壁の一部を確認することができる。
◆交通
 写真上は、テルミニ駅のFS(イタリア国鉄):7,8番ホームあたりにあるエスカレータで地下に降り、まっすぐ行ったところのマクドナルド周辺。写真下はテルミニ駅マクドナルドの2階席。

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●ディオクレティアヌスの浴場 (写真提供:しばっぺさん)
ディオクレティアヌスの浴場
ディオクレティアヌスの浴場
◆説明
 298年〜306年にディオクレティアヌスにより建造された大浴場。敷地面積370m×380m、建物面積45000m2で、一度に3000人を収容したという(カラカラ浴場の約2倍の収容力)。浴場は、取り壊された2つの神殿、私邸などを基盤として用い、4万人にも及ぶキリスト教徒が工事に駆り出された。
 16世紀、建設に携わった殉教者達のため、浴場中心部分はミケランジェロの手によりサンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会に姿を変えた。正面の凹んだ部分はカリダリウム(熱浴室)の壁で、入ってすぐの丸い部屋はテピダリウム(温浴室)であった。奥は、フリギダリウム(冷浴室)があったが、アプシスを造るために壊されてしまった。敷地の西北端と南端の円筒形の建物も遺っており、西北端の建物はサン・ベルナルド教会に転用されている。

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●サルスティウス荘
◆説明
 共和政末期の歴史家サルスティウスがカエサルから敷地を買って別荘を営んでいた。帝政期に移ってからは皇帝の所領となった。現在、サッルスティオ広場の中央、地面が上昇した結果、深さ14mのところに顔を覗かせている。広大な複合建築の一部である、クーポラをもつ丸い部屋はハドリアヌスの時代のものである。

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●カストラ・プラエトリア
◆説明
 21〜23年、親衛隊長セヤヌスの提案によりティベリウスが建造した近衛兵の陣営。アウグストゥスが創設した近衛軍9000の兵士を、都心部からは離れたローマ北東に常設の陣営を建設して、そこに全員を集めたのだ。
 16ヘクタールの敷地と兵舎、司令部を高さ4.7mの壁が取り囲んでいた。その後、アウレリアヌスの城壁に取り入れられた。陣営を囲んでいた壁は、ポリクリニコ通りによく遺っている。現在、跡地は国立図書館とイタリア軍の兵舎の敷地になっている。

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●エスクィリーノ広場のオベリスク
◆説明
 アウグストゥスの墓廟の入口を飾っていたオベリスクの1本。1587年、シクストゥス5世によってここへ移された。

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●浴場及び家屋
◆説明
 2世紀の個人経営の浴場設備と共和政期の家屋が、エスクィリーノ広場の近くのサンタ・プデンツィアーナ教会地下に遺っている。教会は、これらをほぼそのまま利用したものである。

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●ガリエヌスの凱旋門
◆説明
 もとはセルウィウスの城壁の一つエスクィリーナ門で、262年に再建されてガリエヌスに捧げられた。

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●マエナケスの庭園と講堂
◆説明
 前30年、マエケナスは、もとは墓地であったエスクィリヌス丘一帯に広大な庭園と邸宅からなるウィラを造営した。死後、マエケナスはこのウィラを含む全資産をアウグストゥスに遺贈した。
 網目のように外装用石材が張られた外壁をもち、7mほど地下に埋もれた建物は食堂(又はニンフェウム)で、窓のように見せかけている壁には損傷が激しいが庭園画(1世紀)が描かれてる。現在、コンサート会場として利用されることもある。

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●ユリア水道の泉水堂
◆説明
 3世紀前半、セウェルス・アレクサンデルは、ティブルティナ門からエスクィリヌスの丘の間にユリア水道の支線を設け、その終点に巨大な噴水を建造した。水は種々の形の噴水や滝となって、下の水盤に流れ落ちた後、給水槽に送られ、そこから鉛管で市内に配水された。上方の左右の壁龕には、ドミティアヌスが紀元89年に制圧した蛮族の武器をまねた大理石像(マリウスが作ったと信じられていたため、マリウスのトロフィーと呼ばれている)が飾られていたが、1590年、シクストゥス5世はカンピドリオの欄干を飾るためにこれを取り外した。泉水堂の跡(煉瓦の塊)は、ヴィットリオ・エマヌエレ2世広場北端に確認することができる。

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●ユリア水道
◆説明
 ヴィットリオ・エマヌエレ2世広場の東、線路付近にれんが造りの水道橋の残骸が見出せる。

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●ティブルティーナ門
◆説明
 前5年、アウグストゥスがマルキア(下)・テプラ(中)・ユリア(上)の3水道の導水管をティブルティナ街道の上を渡すために建造した門で、ティブル(現ティヴォリ)に通じていた。アーチ中央のせり石には、牡牛の頭の彫刻があり、牡牛(タウリナ)門とも呼ばれた。
 最上段のユリア水道の導水管の碑文は、アウグストゥスがこの門を建設したときにかかげたもので、「神君カエサルの子、アウグストゥ帝」が「すべての水道を修理した」功績をたたえている。最下段のマルキアの導水管の上のものは、ティトゥスがマルキア水道に行った大修理(79年)をアウグストゥにならって伝えたものである。そして、中段のテプラ水道の導水管の壁面は、もとは切り妻の屋根形で飾られていたが、カラカラは212年にこれらの装飾を削り取って、「マルキア水道を修理」して、カラカラ浴場への支線を造り、また「アントニアナの泉を発見して、これを水源に」マルキア水道の給水を補ったことを記した。

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●ミネルウァ・メディカの神殿
◆説明
 9つの壁龕とクーポラを有した十角形の建物(4世紀初頭)。リキニウス氏族が所有した別荘のニンフェウムと考えられている。ミネルウァ・メディカ神殿と呼ばれているのは、ここで発見されたミネルウァの彫刻に蛇(医学「メディチーナ」のシンボル)が付いていたためである。

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●マジョーレ門
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◆説明
 クラウディア水道を利用して造られた門。上段の新アニオと下段のクラウディアの導水管、さらにその下のアーチとの間の側壁の上に碑文が刻まれた。一番上の新アニオの導水管側壁の碑文は、クラウディウスの両水道の完成について「ティベリウス・クラウディウス帝はカウエルレオとクルティオという名の泉の水を自らの費用で市までもたらした」と記し、クラウディア水道が45マイル(68km)、新アニオ水道は62マイル(93km)であると記している。中段の碑文には、ウェスパシアヌスが71年、「9年間、使用不能になっていたクラウディア水道の水を再び市内にもたらした」ことを記しており、またその下の碑文は、ティトゥスが81年にクラウディア水道を改修したことを伝えている。3世紀にはアウレリアヌスの城壁に組み込まれた。

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●エウリュサケスの墓
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◆説明
 共和政末期の製パン屋エウリュサケスの墓碑(前1世紀)。パン製造と販売の情景を描いたフリーズ(帯状装飾)が彼の仕事を今に伝えている。

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●ネロの水道橋
◆説明
 ネロはカエリウスの丘に建設した黄金宮殿と人工湖に給水するため、クラウディア水道の水をプラエネステ門の手前で分岐し、エスクィリヌスとカエリウスの丘をまっすぐ横断する全長約2000mのアーチを建設した。このアーチは、クラウディウス神殿の近くに達し、そこに建設された巨大な貯水槽に入った後、パラティヌスとアウェンティヌスの丘、さらにはテヴェレ川対岸地域を給水した。ラテラノ教会へ向かうVilla wokonskyに400mぐらい、他ラテラノ宮殿と聖堂の北などに遺っている。

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●カストゥレンセ円形劇場
r1301s.jpg r1302s.jpg ◆説明
 セッソリウムに付属した円形劇場。3世紀にアウレリアヌスの城壁に組み込まれた。

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●ラテラノ広場のオベリスク
◆説明
 357年、コンスタンティウスがテーベのアモン神殿から運ばせたトトメス3世のオベリスク(前15世紀)。高さは約32m。キルクス・マクシムスのスピーナ(中央分離帯)を飾ったあと、 16世紀末にシクストゥス5世がここに移させた。

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●アシナリーナ門
◆説明
 3世紀、アウレリアヌスの城壁に造られた門。

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●コンスタンティアの墓廟
◆説明
 4世紀初頭、コンスタンティヌスの娘コンスタンティアと母ヘレナのために建立された墓廟。まもなく改築されて洗礼堂に、さらに1254年、現マウゾレオ・ディ・サンタ・コスタンツァ教会へと姿を変えた。周歩廊のヴォールトと天井は4世紀、モザイクで飾られたが、残念ながら天井部分は1620年の修復の際に取り壊された。また、かつてここに安置されていたコンスタンティアの石棺は、現在はヴァティカン博物館に展示されている。

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