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●キルクス・マクシムス
◆説明
 ギリシアからエトルリアをへてもたらされた戦車競技を行うため、前600年頃、5代目の王タルクィニウス・プリスクスはこの地に競技場を創建した。当初は人々は斜面の草原に腰をおろして競技を観戦していたと思われる。その後、カエサル、アウグストゥスにより競技場の大きさは長さ約555m、幅約185mに達し、1階は石造り、2,3階が木造の、観客約15万人収納可能な大競技場(キルクス・マクシムス)となった。そして、さらにドミティアヌス、トライアヌスと手を加えた結果、競技場は25万人をも収容可能になったのだ。しかしその後はローマの衰退と蛮族の侵入で国力が低下し、549年を最後にキルクス・マクシムスはその役目を終えたのである。
 真ん中にはスピナと呼ばれる低い壁で構成される長さ340mの分離帯が設けられ、この周囲を2頭立て、4頭立て、ときには10頭立ての戦車が競い合った。スピナの両端には金メッキされた青銅製の7頭のイルカと7つの卵が置かれていた。これらにより戦車の周回数を表したのだ。また、スピナ中央にはエジプト征服の記念にローマに運ばれたラムセス2世のオベリスク(現ポポロ広場)やアモン神殿にあったオベリスク(現サンジョヴァンニ・イン・ラテラノ教会)が聳えていた。
 現在は、東端近くに客席の一部とティトゥスが80年に造った入場門の一部とがわずかに石材をとどめているだけである。

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●カペナ門
◆説明
 セルウィウスの城壁に設けられた門で、アッピア街道の出発点となっていた。現在僅かに遺構を確認することができる。

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●ミトラ教の集会場
◆説明
 サンタ・プリスカ教会地下には、1世紀の住宅、トラヤヌス時代のニンフェウム、ミトラ神に捧げられたいくつかの部屋、フレスコ画などが遺っている。ここで発見されたミトラ神の大理石の像はローマ国立博物館に所蔵されている。 

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●デキウス浴場
◆説明
 デキウスによりディアナ神殿の南西に浴場の建設が計画される。完成は帝の死後(252年)となる。コンスタンスとコンスタンティウス2世により修復されている。また、410年に起こった西ゴート王アラリックのローマ略奪の後、414年にも修復されている。現在、アプスのある部屋が遺っている(70m×35m)。

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●アエミリア回廊
◆説明
 前193年に建設。主に小麦の集積貯蔵を目的とする倉庫兼取引所のような建物である。天然セメントを用いた大建築としてはローマ最古の建物である。幅60m、奥行き487m。via Rubattinoに遺構が遺っている。

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●モンテ・テスタッチョ
◆説明
 アンフォラ(ワイン、オリーブ油、魚醤ガルム、蜜蜂などを入れるのに使った陶器の壺)の破片(テスタ)による高さ約35m、周囲約850mの山。ローマ時代、北西のエンポリウムでは各地から船で運ばれてきた大量のアンフォラが荷揚げされていた。そこで割れたアンフォラの破片を後ろの空き地に積み上げられていくうちに、このような大きな丘になってしまったのだ。山は近年、陶片が盗まれて低くなってきたので、閉鎖されている。

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●ケスティウスのピラミデ (写真提供:P.M.さん)
11071.gif 11072.gif 11073.gif ◆説明
 ガイウス・ケスティウス(護民官や法務官を務めた政治家)の遺言に従って、彼の墓として前12年に造られた。起工から330日で完成された。一辺22m、高さ27mで、レンガの芯積みにカッラーラ産の白大理石の化粧張りが施された。内部には長さ5.95m、幅4.1m、高さ4.8mの埋葬室があり、フレスコ画がごく僅かであるが遺っている。後にアウレリアヌスの城壁の一部となった。

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●アウレリアヌスの城壁
◆説明
 蛮族の侵入に備えて、271〜275年アウレリアヌスによって造られた城壁。高さ7.5〜8m、全長18.837km、381の塔、18の城門、それに若干の通用門があった。当時建築資材が不足していたことや早急に造る必要から、これ以前から建っていた建物を数カ所で取り込んだ。309年〜312年マクセンティウスは、この城壁を以前の2倍近い15mの高さにまで強化した。その後、ホノリウスとアルカディウスによっても補強されている。

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●オスティエンシス門
◆説明
 275年頃、アウレリアヌスにより造られた。オスティアに達するオスティエンセ街道の出発点となっていた。2つの筒形円天井のある内側のファサードは3世紀の、また、狭間つきの半円筒形の塔2基の間に筒形円天井が一つある外側のファサードはホノリウスの時代のもの。現在サン・パオロ門と呼ばれているのは、キリスト教の時代になって街道沿いにサンパウロ大聖堂ができたからである。

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