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●コロッセオ(フラウィオスの楕円形闘技場)
コロッセオ内部 コロッセオ コロッセオ内部 エスクィリーニの丘から眺めた夕日に映えるコロッセオ ◆説明
 市民の娯楽のため、ウェスパシアヌスによって72年頃に着工された円形闘技場。この敷地はネロの黄金宮殿の庭の池だったところで、地盤が軟らかかったため、楕円リング状の溝にセメントを流して固めた幅51×深さ7mの土台に、同じ高さの基礎が設けられた。また、水はけのために、セメントの型抜きによる4本の配水管と2本のリング状下水溝がつくられた。この基礎工事だけに2年の月日が費やされたという。それから6年後の80年、息子ティトゥスによって、3層までできあがったところで落成式(剣闘士や猛獣の殺し合いを始めとする催しが100日間続いた)が行われた。いまだに未完成のままで残っていた最上階は、ドミティアヌスによって完成された(82年?)。この闘技場は、当時、皇帝の家名をとってフラウィウスの円形劇場と呼ばれたが、ハドリアヌスによって近くに移されてきたネロの巨像(コロッスス)のため、コロッセウムの名で呼ばれるようになった。
 長径188m、短径156m、周囲527m、高さ48.5m。アレーナ(闘技の場)の大きさは86m×54m。客席約45,000と立ち見席約5,000から成り、計5万人を収容できた。建設資材としては、トラヴァーチン100,000m3、コンクリート6,000トン、そして石材を連結するための鉄300トンが使用されたと見積もられるが、その輸送のために頑丈な道路が敷設され、延べ5万の馬車がそこを往復した。工期を短くするための工夫として、資材はモデュール(基準寸法)によって効率的に準備され、敷地は4つに分割することにより各々別の業者が工事を担当した。この工事にはエルサレムから連れてきた10万人ともいわれる捕虜のうち、4万人も使われたらしい。  闘技場の外側は、下からドーリス、イオニア、コリントの各様式のつけ柱(半円柱)で四角く囲まれた80のアーチが3層と、4層目の壁体から成り、下から徐々に軽く薄くなるよう造られた。
 1層目の80のアーチのうち、長軸と短軸の4正面にあるアーチは特に立派な造りであり、北側は皇帝専用、南側は高官・神官ら、そして東西は剣闘士専用の入口であり、これらをのぞく76のアーチにはそれぞれ番号が付され、入場者は切符(テッセラ)に書かれている番号のアーチから自分の席に上がる仕組みだった。5万人にのぼる入場者を能率良くさばく工夫は、おそらく配球窓口(ミヌキウス回廊)の整理法からヒントを得たのであろう。2,3層目の各アーチは彫像で飾る予定で、ティトゥスはそのような図柄の記念硬貨まで発行したが、結局、彫像は4正門の入口の上にしか設けられなかった。全周に彫像が飾られたのはドミティアヌスの代になってからである。4,5層目には互い違いに窓が開いているが、4層目の低い窓は内部の通路や階段のための明かり取りだった。また、5層目に並んでいる240の突起は、ヴェラリウム(強い陽射しから観客を守っていた覆い)を支えるための240本の木柱の受けである。屋上のコーニスにもそれに対応して240の穴が開いていた。ヴェラリウムは、中央に丸い輪(通風採光の役を果たす)があり、巾着の口を締めるようにまわりから張ったという。現在、北側の地面には穴の開いた低い石柱が5本遺っているが、これが、ヴェラリウムのロープの端を引き締めたり緩めたりするための滑車を取り付けた石柱である。当初はこのような石柱がコロッセウムの全周をめぐって建ち並び、敷地の境界を示す役割も果たしていた。ヴェラリウムを張る作業には、ナポリの近くのミセヌム海軍基地から呼び寄せられた海兵の一隊が就いた。
 客席は3層の階段状に造られ、身分性別によって仕切られていた。1層目の北の第1列中央の客席が皇帝の席で、南中央は高官達の席だった。他、下7段には元老院身分の有力者が坐った。これらアレーナに近い側の席には、追いつめられた猛獣が観客席に飛び上がってくるのを防ぐため、厳重な鉄柵が設けられていた。また万一に備えて矢をつがえた射手も配置されていた。2層目には騎士身分や金持ちの市民、3層目は貧民の席と定められていた。4層目には列柱が施された階段状の立ち見席があり、奴隷にも開放されていた。しかしこのような区別も時代が下がるとともになくなっていった。
 ここで繰り広げられる見世物は無料で公開されていた(小麦の無料給付証明書を示せば入場自由だった)。調教された動物たちや、アクロバット、ジャグラー道化師などにより前座が務められ、メインでは、剣闘士や猛獣の真剣勝負が行われた。剣闘士たちは西側にあるアーチ(凱旋門と呼ばれていた)から華やかに行進しながら入場し、皇帝席の前まで来ると、「死に赴かんとする我ら、皇帝にご挨拶つかまつる」と言うのがしきたりだった。ここでの敗者の命は、全て観客達の意志によって決定され、健闘したものは救われ、そうでないものに対しては指を下に向けた(死を意味する)。
 また、アレーナでは、深さ約1.5m程の水を張って模擬海戦が行われることもあった。落成式の一環としてティトゥスが催した模擬海戦では、ギリシアのコルキラとコリントから呼び寄せられたそれぞれ1500人の水夫が熱戦を繰り広げた。後にナウマキア(模擬海戦専用の闘技場)が造られると、地下設備(地下に動物を入れておく檻、地下から動物をせり上げる装置、そのほか裏方のための設備)が造られるようになった。そしてこの上に、流れる血で滑らないように、アレーナと呼ばれる砂が敷きつめられた。
 更に、ドミティアヌスの時代では、ナイターまでも提供された。とはいえ、灯火が高価であったことは共和政期より変わらず、国家にとっては特に重要な祝祭日に限られたようである。
 その後、帝政期を通しても、コロッセウムは使用され続けた。トラヤヌスの時代には、ダキア征服を祝して、5000組の剣闘士の真剣勝負と、11000頭の猛獣が殺されたという。217年には、落雷によって被害を被ったが、16人の顧問団やゴルディアヌス3世によって修理がなされている。249年のフィリップスによるローマ建国1000年記念においては、1000組の剣闘士の真剣勝負と、象32頭、大へら鹿10頭、虎10頭、飼い慣らされたライオンと豹それぞれ30頭、ハイエナ10頭、カバ6頭、サイ1頭、シマウマ10頭、キリン10頭、野生ロバ20頭、野生馬40頭が殺された。281年のブローブスの凱旋祝いでは、ライオン100頭、豹300頭、熊300頭が殺されたという記録が残っている。キリスト教が勢力を得てからも、剣闘士や猛獣との殺し合いという悪習は止まらなかった。コンスタンティヌス大帝が325年に禁止令を出したのだが、実行がともなわなかった。404年、剣闘士の殺しあいをやめさせようとして観衆に殺されたテレマクスの知らせを聞いてショックを受けたホノリウスによって、ようやく剣闘士の真剣勝負だけはやめになった。見世物として動物が殺されたのは、523年(東ゴート族の王テオドリックの時代)が最後である。
 中世には、コロッセウムはフランジパーネ家の私有物になり、内部は分割されて庶民住宅や作業場として貸し出された。1231年と1349年に大地震があり、壁や上層の弱くなっていた部分が大きく崩壊した。その後、他の古代建築物同様、格好な建築資材の提供の場となり、法王そのほかの有力者たちが教会や大邸宅などを建てるために、飾っていた外装用の大理石や上階部分の石材が持ち去られてしまった。また、アーチごとに置かれていた数多の立像も、すべてが奪い取られた。1675年にはコロッセウムの中に馬糞、牛糞、ロバの糞を山積みにして発酵させ、火薬を造るのに必要な硝石を得るという哀れな目的に使用されるようになった。1703年にまた大地震があって崩壊がひどくなり、石材の略奪も相変わらず続けられて、外壁の北半分はついに消滅してしまった。 1744年、法王ベネディクトゥス14世が、石材略奪のためにどんどん壊されていくことを残念がり、ここは多数のキリスト教徒が猛獣の餌食にされて殉教した聖なる場所であると宣言して、それ以上の破壊をやめさせた。場内の一隅に大きな十字架が立っているのはそのためだ。そうして廃れていた19世紀のコロッセウムはしかし、ある意味で非常に趣が深かったという。内外ともに土砂が厚く堆積し、さまざまの樹木が生い茂って草花も咲いていた。廃墟のようなアーチの間から月光が差し込む情景はロマンチックで、スタンダールはそういうコロッセウムを熱愛したという。小規模な発掘調査や修復工事はすでにその頃から始まっていたが、今見られるように地下室の床まで徹底的に掘り下げられたのは1870年になってからである。
◆開場・入場料など
夏季09:00〜19:00 冬季09:00〜15:00 水・日・祝09:00〜13:00 10000リラ('97.10)
◆交通
地下鉄B線Colosseo下車。

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●コロッススの台座跡
◆説明
 もとはウェリアの丘にあったものだが、ハドリアヌスがウェヌスとローマの神殿を造る際、コロッセウムの側へと移動させられた。移動工事には、12対の象が使用されたという。コンモドゥスは、ウェスパシアヌスによってヘリオス(太陽神)像に改変されていたコロッススを、ヘラクレスに扮したコンモドゥス自身の像につくりかえたので、市民達はネロのいまわしい記憶をよみがえらせた。 現在でも、コロッセウムの北西に四角い台座の跡が残っている。

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●メタ・スダンテ
◆説明
 ティトゥスによって1世紀に造られ、コンスタンティヌスによって再建された円錐形の噴水。この噴水の形が、競技場で戦車競争の転回(折り返し)点を示すために設けられていた標柱(メタ)に似ており、頂上にたくさん開いていた穴からは水が汗のように流れ落ちていたのでこの名が付いた(スダンテとは汗を掻くという意味) 。ファシズムの時代の都市改造で埋められてしまい、現在基礎部分しか遺っていない。ウェスパシアヌス時代のコインに形が描かれている。

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●ルードゥス・マグヌス
◆説明
 96年、ドミティアヌスによってコロッセウムの東隣に建造された。ナポリ湾周辺に点在する剣闘士養成所で訓練をうけた剣闘士たちが、コロッセウムに出場する前の宿舎であり訓練所であった。楕円形の中庭では、剣闘士達の最後の調整が行われた。ここには、猛獣を待機させる場所も備えており、地下道によってコロッセウムの地下に直接通じていた。これにより、観衆は、一日に何十組もの剣闘士競技と何百頭にものぼる猛獣の戦いを見物することができるようになった。最後の修復は4世紀。現在は、遺構の半分が発掘されている。

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●コンスタンティヌスの凱旋門
◆説明
 312年、コンスタンティヌスがマクセンティウスに勝利したこと(ミウヴィオ橋の戦い)を記念して、元老院が315年に建立。 3つのアーチを持ち、高さは25mにおよぶ。当時、蛮族の攻撃に備えて建築資材が不足しがちだったこともあり、凱旋門を飾る浮き彫りは、他の記念建造物から剥ぎ取られ、張り付けられたものが多い。
 10点ある直径2mの円形レリーフのうち8点はハドリアヌスの凱旋門(現存せず)から転用したもので、ハドリアヌスの狩猟と神々に対する犠牲式が描かれている。ハドリアヌスの肖像は、頭部だけがコンスタンティヌス帝とすげ替えられている。側面の円形レリーフ(東の太陽、西の月)は、コンスタンティヌスによるもの。その上の屋階中央の碑文には、「神霊に鼓舞されて側弧を開放した」と記されている。両側裏表8枚のパネルはマルクス・アウレリウスの時代の浮き彫りである。また、屋階に立つダキア人の捕虜像8体と、中央アーチ内側のパネルは、トラヤヌスのフォルムからもたらされたものである。側門アーチを囲む部分とその上の装飾帯、側面をとりまく中段の6枚のフリーズ、柱の基壇の浮彫、三角小壁面の浮彫もコンスタンティヌス時代のものだが、粗削りな作り、、彫塑性や遠近法の欠如などが見受けられる。中世以降はフランジパーネ家の城塞に組み込まれていたため、ほとんど破損することなく今日まで残った 。

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●ミトラエウム
◆説明
 サン・クレメンテ教会地下2階に遺っている。この部分の建設は共和政期に遡るが、東方伝来のミトラ教の聖所となったのは3世紀。宗教的な儀式が行われた神殿の天井は低く、奥にはミトラス神の像が、中央には牛を屠るミトラスと、それを妨害しようとしている悪のシンボルである犬、蛇、サソリのレリーフがある祭壇が残っている。また、両側には入信者たちが座る壇が設けられている。

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●ドムス・アウレア (写真提供:おおねこさん)
入口

通路

八角形の間
◆説明
 64年の大火災によりローマは、市街の大半(ネロが建造したドムス・トランシトリアも含む)を失った。復興計画として、ネロが考えたのは、ギリシア人が「アルカディア」と呼んでいた緑豊かな理想郷を造ることであった。こうして3つの丘にまたがる80ヘクタールの土地に、様々な建物や庭園が広がるドムス・アウレア(黄金宮殿)が造られることとなった。
 宮殿の建造にあたったのはセウェルスとケレル(ス?)。本館は、真南に向けて東西に大きく翼を広げるような幅300mの建物で、円屋根は黄金色に輝いていた。それまでの建築伝統に束縛されない斬新なプランと工法を用いたもので、部屋には金箔が張り巡らされ、ギリシアの彫刻で飾られ、床にはさまざまな色のガラス片と色大理石によるモザイクがはめ込まれていた。また、壁画はファブルス(ファムルス?)によるもので、蔦をからませた植物や怪物の顔、トロイア伝説などが描かれていた。食堂は天井に象牙の鏡板がはめこまれ、開閉式の鏡板からは花が、水管のついた鏡板からは香水が、客の上に撒き散らされるように工夫されていた。食堂の貴賓室は、球状で、昼も夜もたえまなく、天体のごとく自転していたという。また、浴場には海水と硫黄泉がひいてあった。
 宮殿の入口には、高さ120ペス(約35.4m)もあるネロの巨像が建ち、前庭の幅は、1ローママイル(約1.5km)の柱廊が3列も並ぶほど広かった。南に広がる人口池はまるで海のようであり、その周囲を建物が取り囲んでいた。 南端には、クラウディウス神殿の基壇東面を利用した長さ200mもの泉水堂があり、そこから水が人工池へと流れ込んでいた。さらに周囲には、耕地、葡萄園、牧草地、森林と、さまざまな景色をもっており、そこには珍しい動物が多数放し飼いにされていたという。また、パラティウムとは1kmに及ぶ列柱廊で結ばれていた。
 このような大宮殿を完成し奉献式をあげたとき、ネロは「これでやっと人間らしく住めるようになった」と満足したのである。火災に対して復興途上にある市街地と壮観な黄金宮殿との対比は、ネロに対する反感を強める要因の一つとなったことだろう。当時、「ローマはただ1つの宮殿となってしまう。だから、ローマの市民よ、この宮殿がヴェイオを占領しないうちに、ヴェイオに移住しよう」という警句がはやったという。こうした浪費的で退廃的な傾向は、元老院の反感を買い、ネロは68年に失脚した。その後、ウェスパシアヌスは人工池を埋め立てコロッセウムを建設、ネロの巨像の頭部は太陽神の頭部につけかえた。ティトゥスは、庭園に浴場を建てた。宮殿本館は、ティトゥスが住んいたことまでは知られているが、104年の火災で上階が失われた後、その上にトラヤヌスが浴場を建設した。 また、ハドリアヌスは神殿を建設するため、まだ残っていた宮殿の玄関広間を破壊すると共に、ネロの巨像を移動させた。こうして、ドムス・アウレアは完全に姿を消してしまったのである。
 ここが再び日の目を見たのは16世紀のことで、洞窟のような廃墟と化していたこの宮殿の装飾を見て、画家達は蝋燭に火を灯して模写に夢中になった。ラファエッロがヴァティカンの回廊に描いた図柄を「グロテスク」というのは、この洞窟(グロッタ)で発見された壁画を参考にしたからである。同じくヴァティカン博物館保有の「ラオコーン像」は、この宮殿の東側の一室から発見されたものである。現在、見学できるのは、皇帝の寝室等の数室のみだが、繊細で鮮やかな色使いの装飾を見ることができる。また、ニンフェウムも比較的保存が良く、美しい色調のモザイクが一部に残っている。

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●トライアヌスの浴場 (写真提供:P.M.さん)
トライアヌスの浴場
トライアヌスの浴場
◆説明
 トラヤヌスの命により104年着工、109年に竣工した浴場。アポロドロスは、焼失したドムス・アウレアを利用して、オッピウス丘末端の傾斜地を平らなテラス状につくりかえ、その上に浴場を建設した。幅330m、奥行き315mもの広大な敷地を、周壁が取り囲み、そのなかに、浴場(212m×190m)、庭園、遊歩道、運動場、ギリシア語とラテン語の図書館、劇場などを設けた。浴場は各種の浴室を左右対称に配したものだった。  現在はトラヤヌス公園の名で親しまれており、公園内には所々にれんが造りの遺構が点在するのみである。1997〜8年、浴場の地下廊から、1世紀半ばのものと推定される都市鳥瞰図のフレスコ画(3.6×2.75m)が発見されている。
◆交通
 コロッセオ北東の坂道を上ったトライアヌス公園内に遺っている。地下鉄B線コロッセオ駅下車、徒歩7,8分。

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●七層の井戸 (写真/文章提供:P.M.さん)
七層の井戸 ◆説明
 トラヤヌス公園の東側には、セッテ・サーレ(7つの部屋の意)と呼ばれるトラヤヌス浴場のために設けられた巨大な貯水槽が遺っている。各層とも幅5.3mある。
◆交通
 トライアヌス帝の浴場の北東側にある。地下鉄B線カヴール駅から東に徒歩5分。

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●クラウディウス神殿跡地
◆説明
 クラウディウスを毒殺した妻アグリッピーナは、権威を誇示するために神殿の建設を考える。しかしながら、その建設場所はフォルム・ロマヌム内ではなく、7つの丘の中で重要な建物がないカエリウス丘に決まった。
 神殿の建設は、丘の傾斜地を平らにする基礎工事から着手された。200m×180mの敷地の北と東西に、高さ15mを越す壁を石垣のように築き、その中に土を運び込んで平らな地面の神域がつくられた。このうち、東側のトラヴァーチンを用いた壁は泉水堂をも兼ねていた。神域正面の北側は高さが20m近くあり、その中央から前面に突き出す正面階段は、幅50m以上あった。そしてこの壮大な神域に、6本の円柱を正面に持つカエサル神殿と同じタイプの神殿がつくられるはずであったが、59年、アグリッピナがネロによって殺されると、工事は中断されてしまった。その後は、ドムス・アウレアの泉水堂へ、水を供給するだけの貯水池にすぎなくなっていたが、ウェスパシアヌスによって、本来の神殿に戻された。
 神殿は破壊され、跡地も非公開となっているが、チェリオの公園から、神殿を取り囲む回廊を支えていたエクセドラを見ることができる。

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●スカウロ坂
◆説明
 この道は、おそらく前109年の執政官アエミリウス・スカウロスによって建設された道で、左右には高層集合住宅(インスラ)が建ち並び、一階には商店が軒をつられていたという。インスラでは移住空間を少しでも広くしようとして、2階から上は出窓が大きく街路に張り出した造りが多かった。この坂に架かるれんが造りの7つのアーチはそれらを支えていたのである。

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●インスラ
◆説明
 サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ教会の地下には 、インスラと貴族の邸宅が発掘されている。ニンファエウムには3世紀のフレスコ画がある。

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●ドラベッラ門
◆説明
 セルウィウスの城門の一つであり、後には水道橋を交差させる役割をも担った。

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