![]() | ◆説明 |
| マケドニア王ペルセウスに勝利したアエミリウス・レピドゥス及びフルウィウス・ノビリオルの二人のケンソルにより、紀元前179年建造された。フォルム・ロマヌムでは2つ目のバシリカ。その後、火災などにより2度修復されている(前59年アエミリウス・パウルスによる、12年レピドゥス及びアウグストゥスによる)。 大きさは70m×29m。かつては、色美しい大理石の列柱が並び、大プリニウスは「世界で最も壮麗な建物の一つ」と評した。現在は基部が残るのみである。右手奥には、バシリカの梁を飾っていた浮彫の複製が置かれている。「サビニ女の略奪」と「サビニ兵に城門を開けたタルペイア」の建国伝説がモチーフ。 他には、410年に西ゴート族に襲われたとき、バシリカが焼け落ち、青銅の金具やコインが大理石の床に溶着した様を見ることができる。 | |
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| ◆説明 | |
| 12年、アウグストゥスは、バシリカ・アエミリアの南に並ぶ商店街(金融業などが軒を連ねていた)を2階建て列柱廊に改修し、孫のガイウスとルキウスの名前を付した。この改修により北側のバシリカ・アエミリアは広場側から見えなくなった。現在、列柱廊の等間隔で並んでいる遺構が確認できる。 | |
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![]() | ◆説明 |
| 地面に大理石の輪が埋まっている。かつて、この辺りは小川の畔であり、ローマ人とサビニ人は戦いの後、ここに生えていた銀梅花(ミルト)の枝で清めをしたという。 | |
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| ◆説明 | |
| 民会を象徴するコミティウム南端の神聖なモニュメントを隠蔽しようとしたスッラは、コミティウムのレベルをかさ上げすることにより、モニュメントを地下に埋め込み、四角い黒大理石のプレートで覆った。以来、ここはニゲル・ラピス(黒い石)と呼ばれるようになった。地下には神聖な碑名(ラテン語で書かれた最古の文書(前6世紀) )が刻まれた石碑をはじめとして、祭壇や円柱が残っている。 | |
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![]() | ◆説明 |
| 前29年、アウグストゥスによりクリア・コルネリアのあった場所の東側に建造された。クリア正面の方向の変更は、カエサルのフォルムにクリアの背中が接するように計画されたためである。283年の火災の後、303年ディオクレティアヌス帝によって修復、中世にはその上にS.アンドレア教会が建てられた。現在見られる建物は、わずかに残ったディオクレティアヌス帝時代の遺跡をもとに、20世紀になって復元したものである。 奥行き27m、幅18m、高さ20mの建物は、今は煉瓦壁が露出しているが、古代には壁の下部は大理石の化粧張り、上部は漆喰で覆われていた。また前面に設けられていた柱廊の跡が壁に残っている。高さ5.9mの入口の青銅製の扉は17世紀に法王アレクサンデル7世がサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ大聖堂に移してしまったのを、模作して取り付けたもの。内部に入ると、古代のままの美しい象眼細工の大理石床、そして元老院議員たちが居並んだ3段の大理石張りの壇が左右に残っている。かつてここには元老院議員たちが坐る長椅子が置かれた。 ホールの奥には一段と高くなった基壇があり、そこに執政官2名と元老院議員主席でもあるアウグストゥスが坐った。その背後の更に高いところに置かれていたウィクトリアの彫像は、アウグストゥスがタレントゥムからもたらした鍍金青銅像で、ローマ世界を象徴する円球(オルビス・テッラルム)の上に立っていた。4世紀にキリスト教側の代表アンブロシウスと異教側の代表シュンマクスとの間に激しい論争がかわされ、結局ウィクトリアの彫像は除かれた。また、アウグストゥスの決断と寛容と公正と慈愛を感謝する元老院とローマ市民が、そのことを彫らせた黄金の盾を建物内に安置 したという。 現在、フォルムのロストラ前で発掘された一対の祭壇(プルテイ)のパネルがここに保管されている。 表面にはトラヤヌスが弱者(母と娘で表されている)を引見している図、税金が払えなくて借金で苦しんでいる人達の証文を束にして破棄しようとしている絵などがあり、背景にはウェスパシアヌスの神殿、サトゥルヌスの神殿、バシリカ・ユリア、カエサルの神殿などが表されている。裏側には神意を伺うために豚、羊、雄牛を犠牲に捧げている絵がある。 かつてのクリア・ユリアは、当時発行された貨幣から知ることができる。右はその復元図。切り妻屋根の頂点には、葉環をもつ勝利の女神ウィクトリアの像が置かれ、その両端にも彫像があった。神殿の屋根飾りに共通する装飾法であった。 | |
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| ◆説明 |
| フォルム・ロマヌムに残った僅かな空き地に加え、ロストラの一部を削り取って、 195年着工、203年に完成した。大きさは、幅23.27m、奥行き11.2m、高さ23m。この凱旋門は、パルティア戦争の勝利を記念して、セウェルス帝及びその息子のカラカラ、ゲタに奉献されたが、カラカラによりゲタが記憶抹消の刑に課されると、ゲタの名前は削り落とされてしまった。3つのアーチのうち、両端のアーチの上に2回のパルティア戦争の場面が浮き彫られている(ペルシア人やアラビア人がローマに服従を誓っているところなど)。石柱の台座には後手に縛られた捕虜たちが刻まれている。 | |
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| ◆説明 |
| 303年、四分割統治制十周年を記念して造られた記念柱の台座。かつては5本あったが、現存するのは1本のみ。記念の儀式における生贄、それに参列する人々のレリーフで飾られているが、背景がないことや、衣装の刻みの様からレリーフの技術が低いことが伺える。 | |
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| ◆説明 | |
| サン・ジュゼッピ・デイ・ファレニャーミ教会の下に、入口にMAMERTINUM(マルスのサビニ語)と書かれた地下牢獄跡がある。古井戸(前4世紀頃の建設)を利用して前2世紀に開かれた牢獄で、上下2層からなっている。囚人はまず上の部屋に拘留され、処刑が確定すると、床にあけられた丸い穴から下の牢トゥッリアヌムにロープで下ろされた。飢えと冷気で衰弱し死を迎えた囚人は、引きずり上げられカピトリウムのタルペイアの崖から突き落とされたという。この牢獄に入れられて死を迎えたものとしては、前104年1月マリウスの凱旋式に参列したヌミディア王ユグルタ。前46年カエサルの凱旋式に参列したガリア人ヴェルチンジェトリックス。また、近衛軍団の長官であり、大アグリッピーナ等を流刑に追い込んだセイアヌスも恐らくここで首を切られている。 | |
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![]() | ◆説明 |
| 前367年頃、貴族と平民が和解したリキニウス法の成立を記念して、「一致」(コンコルディア)と名付けられた神殿が建造された。神殿は元老院の集会場としても使われていたという。現在残る神殿はティベリウスが建て替えたもの。ティベリウスは古い神殿を撤去するだけではなく、隣のバシリカ・オピミアもとり壊して、それまでとはまったく違う左右に大きく翼を広げたようなプランの神殿を造った。敷地を広げたとはいえ、背後にカピトリヌス丘の急峻な斜面が迫っており、奥行きが限られていたためである。 7年に着工し、10年に完成。 完成を喜んだティベリウスの母リウィアは、所有していたヘレニズム伝来の傑作として名高い絵画、彫刻、工芸品を神殿に奉納し、夫のアウグストゥスにもいくつかの高名な美術品を納めさせた。 | |
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| ◆説明 | |
| 前78年、スラによりカピトリウムの東斜面にタブラリウム(公文書館)が建設された。それまでの公式文書が、サトゥルヌス神殿やウィラ・プブリカなどに分散保管されていたのを、一括して集中保管するための建物である。タブラリウムの名は、12表法を刻みつけた表(タグラ)(青銅板)が保管されていたことによる。中世には牢獄や倉庫として用いられており、現在は市庁舎としてその一部が遺っている。市庁舎の裏側では、タブラリウムの基礎と、かつてはフォルムに面していたアーチ付きの柱廊を見ることができる。 | |
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![]() | ◆説明 |
| ティトゥスにより、神格化された父を祀るウェスパシアヌス神殿の工事が着工され、ティトゥスの死後、 81年にドミティアヌスにより、ウェスパシアヌスとティトゥス二人のための神殿として献ぜられた。また、セウェルスとカラカラにより再建されたことが、神殿の梁に記されている。現在は、3本のコリント式の柱が遺っているのみである。8世紀にローマを訪れた一巡礼者が旅の記念に残したいたずら書きのため、碑文は大方失われてしまった。 記録抹殺刑に処されてしまったドミティアヌスの遺体は、少年時代に母代わりになって育てくれた乳母により秘かに火葬に付した。皇帝廟に葬ることは許されなかったがゆえ、この神殿の一角に遺灰を葬られることになるが、乳母は遺灰を、先に亡くなったユリアの遺灰と混ぜて埋めたのだ。墓碑すらたてることができなくなったドミティアヌスだが、墓にはユリアとともに眠ることはできたのである。 | |
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| ◆説明 |
| ローマの12神(ユピテル、ユノ、ウェスタ、ケレス、ディアナ、ミネルウァ、ウェヌス、マルス、メルクリウス、ネプトゥス、ウルカヌス、アポロ )を象徴する石柱が並んでいる。ドミティアヌスによる建築物。 | |
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| ◆説明 |
| カピトリヌス丘に登る古代の坂道(クリヴス)。黒い火打石で舗装してあった坂道は、今は丸く磨り減って黒光りした姿で残っている。現在、保存のため閉鎖されている | |
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| ◆説明 |
| ローマ人に初めて農業を教え、虫害や干ばつからも守ってくれると信じられていた農業の神:サトゥルヌス神を祀った神殿。創建は前497年。現在も見ることができる石灰華(トラヴァーチン)でできた高い基壇は前42年、ムナティウム・プランクスが戦勝記念の際に立て直したものである。東壁は公式文書の提示場所でもあった。また、前4世紀に改築されたとき以来、神殿を飾っていた前廊の一部である、高さ11mの花崗岩の8本の列柱とイオニア式の柱頭とそれらを結ぶエンタブラチュアも遺っている。更に、神殿の地下にはローマの国庫(アエラリウム)があり、現在もその入口を見ることができる。ルビコン川以降、軍資金に不足していたカエサルが、この国庫が空でないことを耳に入れると、扉をこじ開け、金の延べ棒15000と銀の延べ棒30000に加え、総量29トンにもなる3000万セステルティウス分の銀貨を手中にしたという。 12月17日から催されていたサトゥルヌス祭は、陽気なもので、人々は互いに贈り物をしたり、身分の違いを忘れて一時を過ごしたという。 この神殿が最後に修復されたのは283年。 | |
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![]() | ◆説明 |
| ロストラの後方、サトゥルヌス神殿との間にミリアリウム・アウレウムの台座の一部が遺っている。アウグストゥスが幹線道路の起点を示すために造らせたものである。当時は大理石の柱に青銅板を被せて、ローマと他の主要都市との距離が黄金の文字で刻まれていた 。ただし、その距離は、ミリアリウム・アウレウムからの距離ではなく、セルウィウスの城壁の門からの距離であった。 | |
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![]() | ◆説明 |
| 前44年、カエサルはコミティウムにあったロストラを現在の場所に移し、以前のロストラに倣って湾曲した平面を持つ、大理石造りの堂々たる演壇として建設した。 アウグストゥスは、この湾曲したロストラの前に長方形の基壇をつくり、カエサルのロストラと一体化したものに改造した。幅23.8m、奥行き10.5m、広場の舗装面から3mの高さを持つ演壇となり、正面には昔からの船嘴(ロストラ)が再度取り付けられた。その後、ロストラの右側と左側に、それぞれハドリアヌスとマルクス・アウレリウスの坐像が配され、ディオクレティアヌスによって、四帝共治を印象づけるため、ロストラの背後に五本の円柱を並べ、中央の円柱にはユピテルの彫像を、両脇の四本に四帝の彫像がのせられた。 | |
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| ◆説明 |
| ギリシアのデルフィにあった「世界のへそ」を真似て、3世紀に小さな円堂が建造された。しかしながら、現在は直径4mの煉瓦でできた円が遺っているのみである。かつて、ここがローマの中心であり、冥界との接触点と考えられていた。 | |
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| ◆説明 | |
| かつてこの地は沼地で占められていたが、クロアカ・マクシマにより、市民が集う公共広場(フォルム)にかわった。広場はほぼ長方形で、砂利が敷き詰められた。スラの時代、フォルムはトラヴァーチンにより舗装され、アウグストゥスによっても前12年、全面舗装が行われた。この事業に対して、ロストラのそばに彼の名前をあらわす青銅の文字がはめ込まれた。 フォルムでは、剣闘士試合も開催された。しかし、アウグストゥスの時代に開催地がカンプス・マルティウス(サエプタやスタティリウス・タウルス円形劇場)へと移ると、地下設備は埋められてしまう。 | |
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| ◆説明 |
| 608年、東ローマ帝国皇帝フォカスが法王ボニファティウス4世にパンテオンを教会として献上したのに対して、謝意を表すために建てられた記念柱。階段上の基部の上の柱は、他の建造物から持ってきたもの(1〜2世紀のもの)であり、先端に皇帝の像が乗せられ、碑文が刻まれた。これがフォルム・ロマヌム最後の建造物となった。 | |
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| ◆説明 |
| 内戦終結の凱旋事業として、前54年、カエサルによりバシリカ・センプロニアの建て替えが着工され、アウグストゥスが継続し40年かけて完成させた。しかしながら、前14年の火災で甚大な被害をこうむり、全面的な再建が必要となる。アウグストゥスは敷地全体を拡大して、カエサルの時よりも一回り大きな、そしてはるかに豪華なバシリカとすることを決定した。12年の竣工式の時、アウグストゥスはカエサルの名前ではなく、夭逝した孫のガイウス・カエサルとルキウス・カエサルの名前をこのバシリカに与えた。しかし、その後も一般にはバシリカ・ユリアと呼ばれることが多かった。大きさは101m×49m。角柱で囲まれた広い吹き抜けの中央廊は明るく、幕が引かれて同時に4つの訴訟が行われた。 現在、大理石の床に柱礎が整然と並んでるのを見ることができるが、これは283年の大火の被害に対して、ディオクレティアヌスが286年に再建したバシリカの跡である。中央の身廊を囲み左右2列の側廊と前後廊を備えた大建築であったことが伺える。 | |
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| ◆説明 |
| ローマ人がレギルス湖畔で、タルクィニウス家及びその同盟軍を破ったとき(前496年)、二人の若い騎士がフォルムに現れ、ユトゥルナの泉で馬に水を飲ませたあと、ローマ軍の勝利を告げ、突然その場から姿を消した。この戦いの勝利者アウルス・ポストゥミウスによって、前484年、ローマで初めて、ギリシア神:ディオスクロイ(ゼウスとレダの間に生まれたカストルとポルクスの双子神)に神殿が献納された。その後、前117年カエキリウス・メテルスによって再建され、さらにティベリウス、ドミティアヌス及びトラヤヌスとハドリアヌスの間に、再建あるいは修復されている。正面8本、側面11本の周柱式神殿であったが、現在は高い基壇と東側面の3本の柱が残るだけである。パロス島産の白大理石を用いたコリント式の3本の柱(12.5m)とエンタブラチュアは、紀元6年にティベリウスが修復したときのものである。また、基壇は幅30m、奥行き50mで高さが7mもあり、正面階段は雄弁をふるう場所としてしばしば利用された。このため、アウグストゥスのロストラ、カエサル神殿前のロストラについで、3番目のロストラと呼ばれ、その内陣で元老院会議が開催されることもあった。また、階段の下に設けられた部屋もしくは内陣の前には度量衡の基準となる計量器が置かれて度量衡管理所としての役割を果たし、巨大な基壇のなかにつくられたいくつもの小部屋は両替商の店として、同時に一種の貸金庫として機能した。 | |
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![]() | ◆説明 |
| アウグストゥスに捧げられた神殿。ティベリウスが行った数少ない公共工事の1つ。ただ、ティベリウスはローマに帰るのが嫌で、奉納式が先送りにされており、カリグラが皇帝になった後になされた。その後、カピトリヌス丘のユピテル神殿とパラティヌス丘の宮殿を結ぶための橋を建設する際、その橋脚に位置したアウグストゥス神殿はカリグラにより取り壊されてしまった。しかしながら、クラウディウスの時代に、陸橋は取り壊され、神殿は再建された。 | |
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| ◆説明 | |
| ドミティアヌス又はハドリアヌスにより建造された図書館。レンガ造りでかつては天井がヴォールトで覆われていた。フォルム側に柱廊があり、ウィクス・トゥスクス側にはタベルナが並んでいた。基礎の部分はフラウィア朝時代、タベルナはハドリアヌスの時代のものである。 | |
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| ◆説明 | |
| 前20年頃、アグリッパは穀物倉庫(ホレア)をフォルム・ロマヌムとパラティヌス丘の間に建設した。アウグストゥスが権力を握ったころ、80万に近い人口を養うために、ローマは50万トン以上に及ぶ小麦を輸入に頼っていた。ローマへ小麦が運ばれるのは海の穏やかな夏に限られていたため、冬の間の小麦を貯蔵する施設が必要だったのである。 | |
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| ◆説明 |
| 前44年、カエサルの葬儀の後、カエサルの遺骸を火葬に付した場所に祭壇と円柱が建立された。円柱は、北アフリカのヌミディアで採れる黄色の大理石で、高さ5.8mあり、その中ほどの高さに「国父へ」という文字が刻まれた。この時点ではまだカエサル神殿の建設は計画されていなかった。おそらく、 その後、2年の時を経て、カエサル神殿建立が決定された。王になろうとしたが故に暗殺されたカエサルに神殿を捧げるためには、市民の反応を十分に見極める必要があったのだ。 そして、前29年8月18日、アウグストゥスにより神殿は完成する。火葬後の祭壇を神殿の基壇前面が取り囲み、内陣の前にだけ円柱を並べたプロステュロス式(前柱廊式)の平面プランである。内陣には、カエサルの彫像が安置され、その頭上に星が置かれた。また、前4世紀の画家で、古代最大の画家と評価の高いアペレスの「アフロディテ・アナデュオメネ」のようなギリシア絵画の傑作が何点か展示されたという。 前14年〜前9年のある時点で、アウグストゥスは、正面基壇の祭壇を、基壇の中に封じ込めてしまった。 「祭壇が荒らされることのないように」というのが理由であったが、実際のところは、祭壇に捧げ物をする市民があとを絶たず、人間カエサルの人気が衰えていなかったためであるという。元老院を軽視し、王となることを欲した人間カエサルは、アウグストゥスにとって厄介な存在となっていたのだ。 | |
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| ◆説明 | |
| 前36年のナウロコスの海戦で勝利をおさめ、豊かな穀倉地帯であるシチリアを確保することに成功したことを記念して、オクタウィアヌスは凱旋門を建設した。 その後、前29年、アウグストゥスがアクティウム沖の海戦で、アントニウス及びクレオパトラに勝利すると、1基目の凱旋門を解体してその材料を使い、2基目の凱旋門が建造された。 | |
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| ◆説明 | |
| ローマ人がレギルス湖畔で、タルクィニウス家及びその同盟軍を破ったとき(前496年)、二人の若い騎士がフォルムに現れ、ここで馬に水を飲ませたあとにローマ軍の勝利を請け合ったことにちなみ、前484年に創建された。現在は、壁の一部が遺っているのみである。 | |
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| ◆説明 | |
| 前2世紀のもの。ユトゥルナの泉の南東奥に位置する。 | |
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![]() | ◆説明 |
| 伝説では二代目の王ヌマにより前7世紀に建造。火の神ウェスタ(かまどの女神)を祀った円形の神殿は20本のコリント式の柱で一列に囲まれ、中には永遠の繁栄を象徴する聖火が常に燃やされ続けた。火を守るのは貴族の中から選ばれた4人(後には6人)の巫女たち、皇帝に匹敵するほどの権力を誇ったが、巫女の任期である30年の間に純潔を汚すようなことがあると、ローマに災害をもたらすとして生き埋めの刑に処せられた。最後の修復は、191年の火災後のセウェルスの妻ユリア・ドムナによるもの(193年)。394年には閉鎖された。 現在見ることができる柱の一部は1930年に復元されたものであり、基壇だけがオリジナル。 | |
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![]() | ◆説明 |
| ヌマが設立したと伝えられているウェスタの巫女たちの住居。長方形の大きな建物は2階建てで、柱廊で囲まれた中庭には巫女達の像や壺などが飾られていた。巫女の彫像は291〜364年にかけてここで生活していた巫女にゆかりの像(レプリカ)。像の一つの頭部が欠けているのは、おそらく巫女の一人(クラウディア)がキリスト教に改宗したためと思われる。中庭の長い方の辺には巫女たちの居住用の広間、そして、中庭の突き当たりには大広間があり、その周りには倉庫用の部屋があった。ほか台所や浴室などもあり、一室には、特別な式典の時に高官達に与えるパンの粉を挽いたと思われる臼が今でも見られる。 | |
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| ◆説明 | |
| ウェスタの神殿の北東に位置する切石整層積工法(オプス・クワドウラートウム)による五角形の建物は、ここからREX:レクス(王)と刻まれたブッケロ陶器(黒くて固いエトルリア特有の陶器)のかけらが出土したことより、レギア(王宮)と呼ばれている。発掘によって前6世紀末に造られたことが判明している。ヌマ・ポンピリオの住居だと言い伝えられているが、マルスに献納された聖物納堂、ユピテル・ユノ・ヤヌスに捧げられた生贄台があった場所だとも言われている。共和政期に入ると最高神祗官の執務所となった。 | |
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| ◆説明 | |
| 前2世紀半ばより存在したと思われる最高神祗官の公邸。スキピオ・ナシカからエミリウス・レピドゥスまでの歴代の最高神祗官がここで生活した。前12年、この建物と敷地は、アウグストゥスによってウェスタの巫女達に贈与された。 | |
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![]() | ◆説明 |
| 141年、アントニヌス・ピウスが妻ファウスティーナの死後、彼女のために建てた神殿である。後にアントニウス・ピウスもここに祀られたため、神殿は二人の名で呼ばれている。正面に6本、側面に各2本のコリント式の雲母縞大理石柱(シポリン)を備えた前柱廊式の神殿で、基壇もほぼ完全に残っている。柱の高さは17mにも及ぶ。11世紀には神殿を利用して教会が建てられた。現在のファサードは17世紀初めに改修されたもの。 | |
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![]() | ◆説明 |
| すべての道はここから始まり、すべての道はここにたどり着いた。凱旋の行列はここを通って、最終地点であるカピトリヌス丘のユピテル神殿へと向かった。現在見られる敷石はアウグストゥス時代のもの。多角形に切られた古くて大きな玄武岩が15〜30cmの厚さに敷き詰められている。 | |
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![]() | ◆説明 |
| 526年に教会に転用された円筒形の神殿。斑岩の円柱2本で縁取られた扉口には、古代のままのブロンズの扉が残っている。ロムルス神殿、平和の広場の玄関前ポーチ 、ユピテル・スタトル神殿などの説がある。 ロムルス神殿は、マクセンティウスが幼くして死んだ息子ロムルスのために4世紀に建造した神殿である。 526年に教会に転用された円筒形の神殿。斑岩の円柱2本で縁取られた扉口には、古代のままのブロンズの扉が残っている。ロムルス神殿、平和の広場の玄関前ポーチ 、ユピテル・スタトル神殿などの説がある。 ロムルス神殿は、マクセンティウスが幼くして死んだ息子ロムルスのために4世紀に建造した神殿である。 | |
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| ◆説明 |
| 308年マクセンティウスが着工したバシリカ。当初バシリカはバシリカ・ノウァと呼ばれ、ファサードはコロッセオを望み、壁龕の中にはマクセンティウス帝の彫像が納められていた。その後、ほぼ完成していたバシリカ・ノウァに設計変更を加え、コンスタンティヌス帝により完成された(312年建造 )。ファサードはウィア・サクラ側に配され、壁龕の中には、頭部は大理石、身体は木造、身にまとう衣は、鍍金青銅による自身の彫像がおさめられた。現在、頭部(高さ2.6m)はコンセルヴァトーリ館の中庭に置かれている。 完成したバシリカは間口100m、奥行き60m 、3つの大きな廊からなり、現存する北側廊のアーチは高さ24.5m、すでに崩壊している身廊のアーチは高さ35mであった。屋根は鍍金した青銅板で覆われ金色に輝いていたが、626年に法王ホノリウス1世が旧サン・ピエトロ大聖堂の屋根を葺くために運び去ってしまった。また、元は8本あった高さ14.5mという巨大な石柱のうち、たった1本だけ残っていた柱も、1614年に法王パウルス5世がサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂の前へ移させてしまった。 | |
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| ◆説明 | |
| ウェリアの丘に造られた。この神殿の形はアントニヌス・ピウス時代の硬貨に描かれており、それによると、エクセドラが取り囲む円形の神殿で、中にバッカスの像が納められていた。現在は半円形の遺跡として遺っている。 | |
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| ◆説明 |
| ウェスパシアヌスと息子ティトゥスがエルサレムを占領(70年)したことを記念して、ドミティアヌスによりウィア・サクラの最も高い地点(ウェリアの丘)に建造された(81年)。 門は、単一ヴォールト形式であり、縦溝の付いた円柱と、碑文が刻まれた高い屋階からなっている。門内の両側には、女神ローマに導かれて勝利の女神と共に戦車に乗っているティトゥス、黄金の七枝の燭台などイェルサレム神殿からの分捕品を運んでいる兵士たちが表され、天井の中心には、ティトゥスが鷲に乗って天に昇る姿(神格化を示す)が表されている。 この門は中世にフランジパーニ家の城塞に組み込まれていたために良い状態で残ることとなった。しかしながら付加物が多く、1821年に建築家ヴァラディエによって修復されている。門の土台が露出しているのは、64年の火災後に路床が上昇したことを示している。 | |
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| ◆説明 | |
| 121年ハドリアヌスにより、ローマとウェヌス・フェリクスに捧げる神殿が着工された。東西145m、南北100mの基壇の上に、南北に列柱を設け、周柱式の神殿を建立した。その内陣に2神を祀るため、中央に壁を設け、東西二つに分割し、神像を背中あわせに安置した。ウェヌスを祀った神殿の内部に用いられていた円柱は、ギリシア産の赤色の大理石で、床は灰色がかった白と紅の大理石のモザイク模様であったことが確認されているが、ローマに捧げられた神殿部分の円柱と床面に使われた大理石はわかっていない。135年、神殿の竣工式を挙行されたが、完全に完成したのはハドリアヌスの死後、141年アントニヌス・ピウスによってである。基壇の内部には地下室が設けられたが、それはハドリアヌス時代よりもあとの工事によると思われる。最後の修復は307年。 | |
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