| ◆説明 | |
| 手狭になってきたフォルム・ロマヌムに対して、カエサルがその北側に建設したフォルム。ガリア在任中から新しいフォルムの建設を計画していたカエサルは、前54年、クリア裏側のフォルム・ロマヌムとスブラの間の土地をアッティクスから 6000万セステルティウスという膨大な金額によって買収し、セルウィウスの城壁の一部を取り壊した。工事は前51年から始まり、前46年9月26日に奉献式が執り行われた。この時点では、フォルム奥のウェヌス・ゲネトリクス神殿しか完成していなかったが、9月20日から12日間にわたって繰り広げられる凱旋式(ガリア、アレクサンドリア、ポントゥス、アフリカでの勝利を記念する4つの凱旋式)を飾るため、全ての完成を待たずにして奉献式があげられた。 カエサルのフォルムの大きさは、長さ165m、幅75m。入口である東側には前廊があり、南側と北側にはそれぞれ2列の列柱が並ぶ側廊(アウグストゥスの時代に完成)が、中央にはブロンズ製のカエサルの騎馬像、そしてその奥に神殿があった。また、一画には、ローマ最初の国立図書館が設けられた。現在は、列柱廊の一部と、神殿のポディウム(基壇)上の3本の柱、ヴォールトを支えるレンガの柱(トラヤヌスが建てた銀のバシリカ)が遺っている。他、近くにカエサルのブロンズ像(コピー)がある(オリジナルは市庁舎)。 | |
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| ◆説明 | |
| ウェヌス・ゲネトリクスはユリウス家の私的な守護神でしかなく、それまで神殿を奉献されたことのない女神であった。これに対してカエサルは、ファルサロスの戦い(ポンペイウスとの戦い)の誓約を利用したのだ。 神殿はカエサルのフォルムの西側に位置した。基壇の正面には階段はなく、両側面に小さな階段が設けられていた。そして、正面の8本の列柱の奥、内陣にウェヌス・ゲネトリクスの大理石像が置かれた。 | |
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| ◆説明 | |
| フォルムの建設が計画されたのは、カエサルを暗殺したブルトゥスらとの戦いがはじまらんとしている前42年10月であったとオウィディウスは記している。完成は、後2年8月1日。 中央には4頭立ての戦車を駆るアウグストゥスのブロンズ像が、奥にはマルス・ウルトル神殿と記念門。その両脇には、様々な色大理石を敷き詰めた歩廊と、数多くの大理石像で飾られていたエクセドラ(半円空間)が向き合っていた。ユリウス一門の始祖とされるアエネイアス、その孫のシルヴィウス、アルバ・ロンガの王たちやアッピウス・クラウディウスの像、その対局にはロムルスの像などが置かれた。ここでは元老院会議や犠牲式も執り行われたという。また、15世紀にはロードス島の騎士の家が築かれた。左側歩廊の奥、神殿左横の四角い建物には、かつて高さ14mに及ぶアウグストゥスの巨像が置かれていた。現在その台座を確認することができる。フォルム奥の高さ20m、約12,000m2の広さをもつ切石積みの壁は、スブラからの延焼に対する防火壁としての役割とスブラの喧騒をさえぎる防音壁としての役割を持っていた。 | |
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| ◆説明 | |
| 前42年のフィリッピの会戦前夜、ブルータスらとの戦いに勝利した際にはマルス・ウルトル(ウルトルは“復讐”の意)神殿を捧げることを誓ったオクタウィアヌスは、 誓約通りフォルム内に神殿を建造した。 神殿は白大理石張りで、神々の浮彫が施された三角破風を縦横8本ずつのコリント式円柱が支えていた。三角破風には、上半身裸のマルスを中心をして、その両側にウェヌスとフォルトゥナの女神、更にその外側にロムルスと女神ローマが、端には横たわる姿のパラティヌスとテヴェレの擬人像が浮き彫られていたと推定されている(ローマのヴィラ・メディチに伝わる浮彫にこの三角破風が表されていた)。また、内陣には、中央に甲冑に身を固めた黄金象牙像のマルス(カピトリーニ博物館にフラウィウス朝期の複製がある)、その左にウェヌス、右に神格化されたカエサルの像が置かれたと考えられている(アルジェの国立古代博物館に、この3神をあらわす浮彫がのこっている)。他、カエサルの剣や、パルティアから返還された軍旗などが奉納されていた。現在、基壇及び階段と、3本のコリント式円柱が遺っている。 | |
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| ◆説明 | |
| ドミティアヌスは、アウグストゥスのフォルムと平和のフォルムに挟まれた細長い空間に位置するアルギレトゥムを、120m×45mのフォルムにする計画を建てる。スブッラからフォルム・ロマヌムに通ずる地域が、庶民相手の屋台や歯抜きやひげ剃り屋で占められている状況を改善すべきと考えたためである。完成はネルウァの治世下(97年)。本来ならば着工したドミティアヌスの名が付けられるところであるが、記録抹殺刑に処されてしまったがゆえ、ネルウァのフォルム又はフォルム・トランシトリウム(通過広場)と呼ばれることとなる。 北端にはミネルウァの神殿が設けられ、広場全体が堅牢な壁で取り囲まれた。中世以降コロンナッチェと呼ばれ、鑑賞の対象となっているこの壁の一部には、等間隔で置かれた柱廊の円柱の2本と、その上のフリーズ(帯状部分)が遺っている(神殿の右側)。フリーズには、ミネルウァに関する神話が浮き彫られていた。現存する部分は、ミネルウァよりも機織りがうまいと自慢したために、クモ(アラクネ)にかえられてしまった娘の物語と考えられている。 | |
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| ◆説明 | |
| ドミティアヌスが自分の守護神として崇拝していたミネルウァ(ギリシアの女神アテナに相当。ゼウスの娘で学問、建築や手工芸を司る)に奉じられた神殿。17世紀初頭まで遺っていたが、ジャニコロの丘のパオラの噴水を建設するためにその石材が持ち運ばれてしまった。現在はポディウムのみ遺っている。 | |
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| ◆説明 | |
| 図書館は、通称ロムルスの神殿と共に6世紀、サンティ・コズマ・エ・ダミアーノ聖堂に転用された。壁には当時、フォルマ・ウルビスという、大理石に線刻されたローマ市街地図が飾られていた。191年のフォルム修復工事の際にセプティミウス・セウェルスによって作り直されている。幅18.1m、高さ13mの地図は151枚の大理石板からなり、縮尺率は1/246だった。現在、その約10分の1程度が発見されており、古代ローマの街並みを知るうえでの貴重な資料となっている。 (カピトリーノ博物館にて展示) | |
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| ◆説明 | |
| フォルムの建設はドミティアヌスが構想したもので、すでに部分的な用地買収が行われていたものと推定される。トラヤヌスはこの計画を継承し、更に大規模なフォルムとして107年、工事に着手した。アウグストゥスのフォルムの北西側はクィリナリス丘の斜面のため非常に狭い土地しかなかったが、トラヤヌスはこれをアポロドロスに命じて削らせ、広大な敷地を確保したのだ。「切り崩した尾根の高さを柱のそれが記憶する」という銘が記念柱基壇におさめられたトラヤヌスの骨壺に刻まれている。これにより、アウグストゥスのフォルムの3倍もの広さにも及ぶ、皇帝たちのフォルム最大のフォルム(幅185m、奥行き310m)を建造した。 また、これによりフォルムと新市街地カンプス・マルティウスを結びつけることに成功した。竣工式は112年1月1日にあげられた。 南側の前廊からフォルムへと入ると、まず大理石を敷きつめた広大なフォルムがひらけ、その3辺ともに2重の列柱回廊を有した。更にその両端には、エクセドラを持つ壁があった。中央には、4頭立ての戦車を御すトライアヌスの銅像が置かれていた。そして数段高くなっている正面奥にはバシリカ・ウルピアが設けられた。更にその奥にはトラヤヌス円柱と、そして左右に国立図書館があり、最北端には神殿が設けられた。 | |
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| ◆説明 | |
| 113年トラヤヌスにより建造された。170×60mの大きさ。横に4列の列柱によって5廊に区切られ、アプシスは左右対称に2つあり、床は多色の大理石張りだった。 ウルピアという形容詞は、トラヤヌスの氏族名ウルピウスからきている。現在、かつての入口にあたる部分の円柱や柱礎の一部を確認することができる。 | |
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| ◆説明 |
| 2度にわたって行われたダキア戦役(101〜102年と105〜106年)に対するトラヤヌスの勝利を記念して造られた。完成は113年5月12日。19の巨大な白大理石(カッラーラ産)のブロックを積み重ねた高さ約30m(台座などを含めると40m)の記念柱には、ダキア戦役勝利の場面(ダニューヴ越えから、ダキアの王デケバルスの自害まで)が、下から上へと23回の螺旋を描きながら頂きまで彫られている(幅89〜125cm×長さ200m)。 かつては浮彫の上から彩色が施されていたという。シーン数は114を数え、登場する人物の数は2500にも上る。そのうち、トラヤヌスは60回登場している。兵士たちが手にもつ槍と剣はすべて銅製であったが、帝国滅亡後に抜き取られて溶解されてしまった。かつては、この壮大な浮き彫りを両隣の図書館の屋上テラスから見ることができたという。 現在は図書館が失われたため本物を間近で見ることは難しいが、レプリカならば、エウルのローマ文明博物館で観察することができる。 円柱の内部は空洞で、螺旋状の階段で上に上がれる構造になっている(非公開)。このため、浮彫の間に目立たないようにして明かり取りの窓が設けられている。 また、円柱の先端には軍装姿のトラヤヌスの像がたっていたが、1587年に法王シクストゥス5世によって聖ペトロの像と取り替えられてしまった。 円柱の台座には、トラヤヌスと妻のプロティナの遺灰を収める黄金の骨壺が用意され、トラヤヌスが亡くなると117年ここに葬られた。 | |
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