●ハドリアヌスの神殿 (写真提供:P.M.さん)
神君ハドリアヌスの神殿 ◆説明
 139年、アントニヌス・ピウスは、ハドリアヌスを祀る神殿の工事に着手し、145年に完成させた。神殿は東向きの正面八柱式の周柱式神殿であり、周囲には列柱回廊がとりまいていた。また、壁面(又は内陣)は、ローマ帝国を構成していた38の属州を擬人化した38人の人物像の浮彫で飾られていた(そのうち16は、ローマやナポリの博物館に保管されている)。
 現在、証券取引所に遺っている大理石製コリント式列柱11本(高さ15m直径1.45m )は、当時の神殿の左側面(北側列柱廊)に位置したものであり、もともとは13本あった。他、北面神室の壁(外装の大理石は失われている)と、高さ4mの基壇(地表より下)が遺っている。
◆交通
 ピエトラ広場の南側に建つ証券取引所の北面。トレヴィの泉やパンテオンから徒歩6,7分。ローマ一有名なジェラッテリア・ジオリッティから徒歩3分(^o^)/(P.M.さん情報!!)

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●象のオベリスク (写真提供:しばっぺさん)
象のオベリスク ◆説明
 もとは、サエプタ・ユリア隣のイシスとセラピスの神殿にあったもので、前6世紀の古代エジプトのオベリスク。ベルニーニは、教皇アレクサンドル7世の在位を記念して、イシス神殿跡から出土したオベリスクを、大理石の像の上に乗せた。

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●ミヌキウス回廊
◆説明
 前2世紀に建造された回廊の周りの囲いが遺っている。クラウディウスは食糧供給施設の整備のため、この回廊を、45の窓口を有する小麦配給所に改築した。当時、小麦の無料配給を受ける市民は、その資格を証明する無料配給資格証(テッセラ・フルメンタリア)を各自所持し、毎月指定された日に、指定された番号の窓口に小麦を受け取りに行った。

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●神殿
◆説明
 前2世紀、ミヌキウス回廊内に建造された神殿。航海の守護神ラレス・ペルマリーニに奉献されたものという説があるが確かではない。現在は、斑岩の柱が2本遺っているのみである。

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●アレア・サクラのA神殿
◆説明
 パンテオンの南側に位置するアルジェンティーナの聖域(アレア・サクラ)。名は司教ジョヴァンニ・ブルクハルトの出身地ストラスブールのラテン語名アルジェントラトゥムに由来している。
 深く掘り下げられた区域に、ムッソリーニの時代1920年代に発掘された4つの神殿が遺っている。これらの神殿は、前4世紀末から前2世紀初頭にかけて順次建立された神殿であり、ギリシア・ローマ神殿の規範にのっとり、いずれも東を正面としている。北からA神殿、B神殿、C神殿、D神殿と名付けられている。
 A神殿は、前3世紀半ば、第一次ポエニ戦争でカルタゴをシチリアの西方海域で破ったあと、ユトゥルナに献じられたもので、地下には、中世に建てられたサン・ニコラ教会の地下墓地(クリプタ)が遺っている。

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●アレア・サクラのB神殿
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◆説明
 円形の構造のB神殿は、ガリアを侵攻したゲルマン人の一派であるキンブリ族との戦いのあとの前101年、クイントゥス・ルタティウス・カトゥルスによって、運勢の女神フォルトゥナに献じられたものである。

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●アレア・サクラのC神殿 (写真提供:しばっぺさん)
アレア・サクラのC神殿 ◆説明
 C神殿は4つの神殿の中で最も古く、フェロニア(サビニ人が信奉していた大地の神)のために前4世紀末〜3世紀初頭の間に建造されたもの。

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●アレア・サクラのD神殿
◆説明
 4つの神殿の中で最も大きかったD神殿は、前2世紀初頭に建造された。しかし、今はその大部分が新しい道の下に隠れてしまっている。

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●公衆便所
◆説明
 アレア・サクラのAとC神殿の後ろに位置する壁は帝政期の公衆便所である。

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●クリア・ポンペイア
◆説明
 B神殿の背後に見える凝灰岩の壁は、ポンペイウスの劇場と回廊に付属したクリア・ポンペイアのものである。ポメリウムの外では初めてのクリア。

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●ポンペイウスの劇場
◆説明
 ポンペイウスによって造られたローマ最初の常設劇場。それまでローマには上演ごとに組み立てられる木造の劇場しかなかったのである。それは、質実剛健を旨とするローマ人が、ギリシア人の演劇趣向を軟弱なものとして軽蔑していたためである。実際、前154年、パラティウムの斜面を利用して着手された劇場建設は、同年発布された元老院布告によって中止させられている。ポンペイウスはこれを避けるために、劇場の観客席最上部にウェヌス・ウィクトリクス神殿を設け、劇場全体を神域としてウェヌスへ捧げるという目的を前面に出し、常設劇場の建設を成し遂げたのだ。
 前55年に完成したこの劇場は、幅約95mの舞台をもち、観客席の直径は約140m・収容人員は12000人も及んだ。その威容さゆえに、大理石劇場(テアトルム・マルモレウム)とも大劇場(テアトルム・マグヌム)とも呼ばれた。帝政期へと移行していくと、徐々に利用回数も多くなってきたのであろう、アウグストゥスによる修理や、ティベリウスによって全面改装が行われた記録が残っている。
 アレア・サクラの西側、ラルゴ・デル・パッラーロ広場にある湾曲した建物は、ポンペイウス劇場の半円すり鉢状客席部分を利用して建てられたものである。他、観客席を支えていた放射状支壁が、同広場のホテルと、レストラン「Da Pancrazio」の地下に遺っている。

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●アグリッパ浴場 (写真提供:しばっぺさん)
アグリッパ浴場 ◆説明
 前25年、アグリッパによりパンテオンの南に建造されたローマ最初の公共浴場(無料)。浴場は、中央に明かり取りと室温調整のための穴があいた丸天井をもつラコニクム(発汗室)、その周囲に熱い湯、温かい湯、冷水の各浴槽を備えていた。しかしながら、十分な給水を受けることができないカンプス・マルティウスの浴場で水を使用するためには、ウィルゴ水道の完成を待たなければならなかった。ディオ・カシウスによれば、完成当初のアグリッパ浴場は、水の消費が少ないラコニクムだけであったという。そして水道完成後(前19年)にはじめて、各種浴室が機能できるようになったと思われる。 現在、アルコ・デッラ・チャンベッラ(ドーナツのアーチ)通りで、筒状のれんが風の壁を見ることができる。

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●ウィルゴ水道
◆説明
 水源は東方のトゥスコロ。アグリッパ浴場に水を供給するため、前19年アグリッパによって建造された。水道の全長は19km、そのうちの大部分(18km)が地下を通っており、供給量は1日あたり103,680m3だった。この水道は16世紀に修復され、現在もなお数々の噴水に水を供給している。トレヴィの泉はその一つ。

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●噴水のオベリスク
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◆説明
 サエプタ・ユリアの東に隣接していたイシスとセラピスの神殿跡から出土した数本のオベリスクのうちのひとつである。 ラメス2世のもの。

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●パンテオン
◆説明
 パンテオンの三角破風(ペディメント)の下には「M・AGRIPPA・L・F・COS・TERTIVM・FECIT」(マルクス・アグリッパ、ルキウスの息子、3度目の執政官職により建造)という旨を表した青銅の大きな文字がはめ込まれている。このため後世の人達は、この建物はアグリッパが造ったものそのものであると思い込んでいた。ところが1892年にフランス人の学者シュダンが、パンテオンの壁体を構成しているレンガのすべてにハドリアヌスの時代の刻印があることを発見した。文字は、ハドリアヌスが初代の建造者を尊重して刻ませたものであり、現在我々が見ることができるパンテオンは、ハドリアヌスによって新しく建て直されたものだったのだ。
 元のパンテオンは、アウグストゥスがアクティウムの海戦で勝利を収めたことを記念して、アグリッパが前27年に建造したものである。トラヴァーチンを砕いて固めた基盤(4.5mの厚さ)の上に、左右に大きく翼を広げたような平面プランをもつ神殿が築かれた。計画段階においてアグリッパは、アウグストゥスを神として祀る神殿(アウグステウム)を建造することを提案したが、アウグストゥスに辞退されたという説がある(ディオ・カッシウスの記述から)。その後パンテオンは、64年と80年の火災で焼失してしまい、ドミティアヌスによって一度は再建されるものの、110年の落雷によって再び焼失してしまった。 118年、ハドリアヌスは、放置されたままになっていたパンテオンを新しいプランで建て直すことを計画し、125年竣工した。
 ハドリアヌスによるパンテオンは、正面の位置が180度回転された。幅33.1m、奥行き15.5mのプロナオス(前室)の正面は太さ4.5m・高さ12.5mの8本のコリント式円柱と三角破風により飾られた。その柱身はエジプト産の花崗岩による一本石で、基礎と柱頭だけがギリシアのペンテリコン産大理石である(玄関左手の柱が赤っぽいのは、ネロ浴場で見つかったものを再利用した為。また、ベルニーニによる3つの柱頭も他とは異なる)。その奥にはさらに2本ずつの円柱4列により、 3つの身廊にわけられた。中央の身廊の奥には青銅の大きな扉が設けられ(現在のものは当時のものではない)、両側の身廊奥の壁龕には、アウグストゥスとアグリッパの像が置かれていた。また、三角破風部は青銅の浮き彫りで覆われており、屋根は鍍金された青銅瓦でおおわれていたという。
 扉の奥に続く丸い本殿は、直径、高さ共に43.3mという大きなクーポラで覆われている。この壮大なクーポラは、重量の負荷を軽減するために、上になるほど薄くなるように、且つ軽くなる5種類のセメントを用い、更に周囲の壁(最大の厚みは6.2m)にアーチを埋め込むことにより膨大な重量を分散し、成り立っている。床から軒蛇腹までの壁はトラヴァーチンと凝灰岩の破片を混ぜ合わせたもの、ドームの立ち上がりの部分までは凝灰岩と煉瓦からなるもの、ドームの下層部分は煉瓦の破片を固めたもの、中層部分は煉瓦のかけらに凝灰岩を混ぜて軽くしたものを使用している。そして、最上層は、軽石と凝灰岩を骨材としている。最上層の頂には直径9mのオルクス(目という名の天窓:太陽を意味している)が開き、内部の唯一の光源となっている。この部分の厚みは1.5mに減ぜられている 。
 内部の床や壁には古黄大理石(ジアッロ・アンティーコ)や赤花崗岩が用いられた(現在も遺っている)。そして、内陣の壁には7つの大きな壁龕と8つの小祭壇が配された。パンテオンは「よろず:万」の神を祭る神殿であり、ディアナ(月)、マルス(軍神)、メルクリウス(旅行と商業の神)、ユピテル、ウェヌス、サトゥルヌス(農業神)、アポロ(日)の7曜の神像が、壁龕に安置されていたといわれている。7曜神をこのように月曜から日曜という順序にすると、木曜を表す最高神ユピテルはちょうど正面の奥に位置した。
 西ローマ帝国が衰えると、侵入してきたゴート族によって金目のものが略奪されたが、建物自体は手をつけられなかった。また、609年に教会に転用されたことが幸いして、現在もなお良い状態で遺っている。但し、古代の神々の像は取り除かれ、キリストと聖者たちの像が代わりに置かれた。只、現代ではそれらの像もほとんど除去され、国家的な功労者を祀る場となった(右側2番目の壁龕の下にはヴィットリオ・エマヌエーレ2世、左側3番目の壁龕の下にはラファエッロの墓がある)。他、14世紀に城塞として使われたり、17世紀前半、法王ウルバヌス8世によって、サン・ピエトロ大聖堂の天蓋とサンタンジェロ城の大砲を鋳造するために、天井に張ってあった青銅板が剥ぎ取られた。

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●ドミティアヌスのスタディウム
◆説明
 86年、ドミティアヌスは、ネロのギムナジウムをトラヴァーチンにより外壁に2層のアーチをもつ競技場(スタディウム)に改築した。 大きさは275m×106m、3万人を収容した。現在、中央のアレーナ部分(幅50m、長さ260m)がそっくりそのまま現ナヴォーナ広場(名は競技会giochi agonaliに由来)として遺っている。また、周辺の建物の壁は、競技場の観客席をささえていた壁をそのまま使ったものである。 他、広場北西サンタニェーゼ・イン・アゴーネ教会の地下に、入場門や客席の一部が保存されている。

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●四大河の噴水の上のオベリスク
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◆説明
 もとはイシスとセラピスの神殿にあったオベリスクで、その後マクセンティウス競技場に立てられた。ローマ製で、エジプトの聖刻文字によりヴェスパシアヌス、ティトゥス、ドミティアヌスの名が刻まれている。法王イノケンティウス10世はこれをナヴォーナ広場に据え、ベルベーニによる噴水彫刻によって支えた。ちなみに四大河の泉もウィルゴ水道からのものである。

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