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●インスラ
◆説明
 ヴェネツィア広場北のドリア・パンフィリ館近辺の地下8mに発見されているローマ時代の集合住宅。

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●ドムス
◆説明
 インスラと同じ一帯に、大理石やモザイクの床をもつ帝政期の住宅(ドムス)が発見されている。

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●マルクス・アウレリウスの記念柱
◆説明
 マルクス・アウレリウスがゲルマン人およびサルマティア人に対する戦いで勝利を収めたことを記念して、ハドリアヌス神殿近くに造られた。マルクス・アウレリウスの死後、180〜193年にかけて造られ、完成はコンモドゥスの時代になってから、もしくはセプティミウス・セウェルスの治世に入ってからである。  円筒形の28の白大理石を重ねた高さ29.6mの円柱であり、、柱上の像と台座を含めると高さ約44mにもおよぶ。円柱は、トラヤヌスの記念柱を模して造られており、 172年から翌年にかけての戦争と174年から175年の戦争のありさまが、絵巻物風に浮き彫りされている。しかしながら、トラヤヌスの記念柱と比べるとそのレベルは劣っている。浮彫の間にはトラヤヌスの記念柱同様、明かり取りの小窓があり、内部には螺旋階段がある。まれに柱上まで登らせてくれることがあるらしい。かつて、柱上にはマルクス・アウレリウスとその妃の像があったのだが、1589年に法王シクストゥス5世によってパウロの像に取り替えられた。また、台座はその時に修復され、誤った解釈によりアントニヌス・ピウスの記念柱であるという記銘が入れられた。

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●モンテチトリオ広場のオベリスク
◆説明
 前6世紀初めに造られたプサンメティコス2世のオベリスク。前12年頃アウグストゥスによりエジプトのヘリオポリスから運ばれ、前9年、日時計の指時針として設置された。設計はマエケナスとアレクサンドリアの天文学者による。当時は、現在の位置から北に20mの場所に立っており、現在の位置へはシクストゥス5世によって運ばれた。
 高さ約30mの赤色花崗岩のオベリスクは、青銅で時刻盤が記された広場にその影を映し、時を計ることができた。広場の東側の平和の祭壇(現在はアウグストゥスの墓廟西に移動)は、秋分の日(アウグストゥの誕生日でもある)と春分の日に、オベリスクの陰をその入口に取り込むように造られた。
 フラウィウス朝時代には、日時計は正確さを欠くようになっていた。おそらく地震などによってオベリスクが動いてしまったのだろう。このため、ハドリアヌスは日時計の修復をしたと考えられる。

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●アウグストゥスの日時計の時刻盤
◆説明
 かつて、トラヴァーチンで舗装された12000m2におよぶ広場に刻まれていた、青銅の時刻盤の一部がサン・ロレンツォ・イン・ルチーナ教会の地下に遺っている。

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●アウグストゥスのマウソレウム
◆説明
 前28年アウグストゥスは、テヴェレ川の畔にユリウス一族の末永い繁栄を祈念するための墓廟(マウソレウム)を建造した。ローマでは城壁内には墓を置かないと決められていたため、都心からは遠く離れたこの地に築かれた。白大理石で飾られていた直径87mの墓廟が円形の基礎の上に置かれた。内部は同心円上の5つの壁で仕切られた通廊と12の支壁から成り、その上の盛土と糸杉林を支えていた。頂上(44.65m)には、青銅製のアウグストゥスの像が立っていたといわれている。入口は南に面しており、その両脇に2本のオベリスクが立っていた。2本のオベリスクのうち1本は、教皇シクストゥス5世によって1583年にエスクィリーノ広場に、もう1本は、ピウス6世によって1786年クィリナーレ広場に移された。また、玄関には、アウグストゥスの遺言状通りに、青銅板に彫刻された業績緑(レス・ゲスタエ) (造営物と修繕工事目録、下賜金および寄付金と提供した興行の明細、戦功と朝貢者目録など)が2つの柱により掲げられていた。しかしながら、業績録はここからは発見されていない。我々が業績禄の全貌を知ることができるようになったのは、トルコのアンカラ、アポロニア、アンティオキアで発見された業績禄の碑文による。平和の祭壇の壁面の業績禄は近年彫刻されたものである。
 墓廟に最初に葬られたのはアウグストゥスの姉オクタウィアの息子マルケルス。続いてアグリッパ(前12年)、ネロ・クラウディウス・ドルスス(前9年)、ルキウス・カエサル(後2年)、ガイウス・カエサル(後4年)が、そして、前14年、アウグストゥスが葬られた。隣のウストリヌムで火葬が行われた後、骨壺は墓廟の中央に置かれた。その後もユリウス・クラウディウス朝の人々が合祀されている。ゲルマニクス(19年)、リウィア(29年)(アウグストゥスと同じく墓廟の中央に骨壺が置かれた)、ティベリウス(37年)、アグリッピナ・マイヨール(33年死亡37年合祀)、ネロ(30年)及びドルスス(33年)(おそらく両者37年に合祀)、クラウディウス (55年)、ポッパエア・サビーナ(65年)、ネルウァ(98年)である。トラヤヌスは自らの記念柱に、ハドリアヌス以降の皇帝はハドリアヌスが建造した墓廟に葬られたため、以降使用されなくなる。しかしながら、一説によるとセプティミウス・セウェルスの妻ユリア・ドムナは一時ここに葬られたようである。
 その後、12世紀頃コロンナ家によって墓廟は防塞に変えられてしまう。更には15,16世紀頃には庭園に、18世紀には木造の円形劇場が造られ、19世紀初頭まで闘牛が行われていた。また、1907年には、アウグステオと呼ばれる約3500の座席を持つ大きな演奏会場として利用された。しかしながら、同時にこの頃から本格的な発掘が試みられるようになった。最後の発掘は1934年から行われ、墓廟周辺の人家は撤去され、1936年5月13日をもって演奏会は終了、1938年をもって発掘作業は完了した。

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●アラ・パチス
◆説明
 ヒスパニアとガリアでのアウグストゥスの勝利を祝うために、元老院によって前13年、日時計の広場の東側の敷地に着工された祭壇。前9年9月23日奉献式が挙行された。正面11.6m×側面10.6m、高さが4mの大理石の壁に囲まれ、西(厳密には18度37分南)と東に入口が開いていた(現在は南と北)。その内部に高さ5m足らずの四角形の祭壇が置かれた。祭壇自体は天井無しの野天造りであり、おそらくヤヌス・クイリヌス神殿の形式にならっている。内部では牛を焼くなどの犠牲式が行われた。4世紀まではほぼ完全な状態だったが、その後破壊されてばらばらになってしまった。各博物館から断片を集めて復元し、現在はテヴェレ川のそばにあるガラス張りの建物内に安置されている。  大理石の周壁にはいくつかの浮彫を見ることができる。周壁の下部にはアカンサスから立ち上がる葡萄や蔦の蔓が左右対称にあらわされ、ところどころにサソリ、トカゲ、蛙、蛇、白鳥が配されている。白鳥はアポロの聖鳥でアウグストゥスを意味している。小動物たちは、豊穣のシンボルであると同時に、活力に満ちた世界を意味している。
 周壁上部には神話の場面や儀式の行列場面が浮彫られている。正面の右パネル「ラウィニウムの牝豚」は、トロイアを逃れてラウィニウムに上陸したアイネイアス(衣の一端を頭にかぶって裸足で立っている)が、息子のユルス(背後で槍を持っている)とともに、家庭を守る神であるペナテスに豚を奉納する場面である。中央の祭壇左に儀式の進行を助ける子供二人、後方にペナテス神殿が見える。樫の木の下の祭壇で白い牝豚を捧げようとしたとき、30頭の子豚が生まれたという伝承に基づいている。白い牝豚は、のちに建設されるアルバ・ロンガ(白く長い街)を意味し、生まれた子豚は、そこで多くの子孫が生まれることを暗示していた。ユルスはユリウス氏族の始祖であり、このパネルはユリウス家の起源を示唆しているものと思われる。
 左パネル「牝狼の乳を飲む双子と軍神マルス」は、イチジクの木の下で牝狼がロムルスとレムスに乳を与えている場面で、二人の父親であるマルスと育ての親となる羊飼いファウストゥルスが両側に見ることができる。ローマの起源を示唆するものであるが、破損がひどい。
 背面左パネル「大地の女神テッルス」は、幼児二人を両腕にかかえた大地の女神テルスが中央の岩に座し、その両脇には、マントに風をはらませた上半身裸の女神が座す構図になっている。幼児二人は大地の実りを象徴し、左の女神が乗っている白鳥と、右の女神が乗っている怪物はそれぞれ川と海を象徴している。3人の女神たちの足下には麦畑や牛、羊が描かれており、全体として陸と海にもたらされた平和を示している。
 背面右パネルもまた破損がひどいが、武装した女神ローマ(ギリシア神話のアマゾネスを模した女神)が名誉の神ホノスと勇気の神ウィルトゥスをともなって坐っている場面とみなされている。
 側面の壁面を埋めている浮彫は、平和の祭壇の完成式が行われたときの行列であり、それぞれの壁面において大きく4つのグループに分かれている(行列は一方が他方の面の続きではなく、横列の関係にあったと思われる)。正面右の側面は、先頭から大神祗官団、鳥官団、神官団、最後にアウグストゥス一族が続く。大神祗官団のグループは欠損箇所が多く詳細は不明である。卜鳥官団のグループは前のグループよりも保存状態が良く、中央に大卜鳥官としてのアウグストゥスがいる。衣の一端で頭を覆い、その上に樫の葉でできた月桂冠をかぶっていた。続く神官団は、頭部に突起のついた特徴のある革の帽子をかぶり、毛織りの厚い衣を着たユピテル大神官、マルス大神官、クイリヌス大神官、それにユリウス神官であるが、誰がどの神官であるかを見分けるのは難しい。その後に、アウグストゥス一族が続く。先頭に立つ男は、頭を衣の一端で覆い、右手に公職にあることを示す巻物を持っていることより、アグリッパであると考えられている。その顔は非常に年老いたものである。彼の後ろには息子のガイウス・カエサルとアウグストゥスの妻リウィアが続いている。
 正面左の側面も同様に4つのグループに分かれている。先頭からユピテル聖餐7人神官団、卜鳥官団、祭儀執行15人神官団、そしてアウグストゥス一族である。聖職者グループの中で特定できる人物は一人もいない。また、アウグストゥス一族も南壁のように多くを特定することはできていない。

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●ポポロ広場のオベリスク (写真提供:しばっぺさん)
ポポロ広場のオベリスク ◆説明
 前31年、クレオパトラとアントニウスを倒し、エジプトを征服したアウグストゥスがヘリオポリスの太陽神殿前から持ち帰った2本のオベリスクのうち1本(もう1本は日時計として利用された)。前13世紀のエジプトの王ラムセス2世のもので、その功業が聖刻文字(ヒエログリフ)で彫り込まれている。高さ24m、台座を含めると36.5mにもおよぶ。アウグストゥスはこれを、キルクス・マクシムスの中央分離帯に標柱として立てた。その後、1589年に法王シクストゥス5世がフォンターナに命じてキルクス・マクシムスに立っていたオベリスクをポポロ広場に移建させた。

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●ピンチョの丘のオベリスク
◆説明
 ハドリアヌスが慈しんだアンティノウスの墓に飾られたローマ製のオベリスク。その後ウァリアヌス競技場へ移されたようで、ここからオベリスクが出土した。現在は、ピンチョの丘に立てられている。

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●トリニタ・デイ・モンティ広場のオベリスク
◆説明
 サルスティウス荘で発見されたローマ製のオベリスク。

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●ルクルス荘
◆説明
 食堂楽の富豪ルクルスの屋敷。ルクルスは小アジアのミトリダテス戦役で蓄えた巨富によりここに屋敷を構え、美術品や写本を蒐集し、調理に使う珍獣や鳥を飼育し、植物を栽培していたという。

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●ピンチアーナ門
◆説明
 アウレリウス城壁に造られたトラヴァーチン造りの簡素な門。脇にゴート族の侵入時代にベリサリウスが築かせた2本の角塔が遺っている。

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●ミルウィオ橋
◆説明
 前3世紀に木造の橋として架けられ、前109年に凝灰岩で再建された。現在の橋はジュゼッペ・ヴァラディエールによる改築(1805年)後のものである。一部は前109年のもの。

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●ウィラ・リウィア
◆説明
 市北約9km、フラミニア街道沿いのプリマ・ポルタに遺るリウィアの別荘。フレスコ画で装飾された多くの部屋と、浴場施設からなっている。地下の広間(約60m2)の壁に描かれた庭園図のフレスコ画(前20〜10年)は現在、国立考古学博物館(マッシモ館)に収蔵されている。また、 1863〜64年に発見された「プリマ・ポルタのアウグストゥス像」はヴァチカン博物館に収蔵されている。

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●クィリナーレ広場のオベリスク
◆説明
 アウグストゥスの廟に立てられた2本のオベリスクのうちの1本。法王シクストゥス5世がここに移建した。

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●水盤
◆説明
 フォルム・ロマヌムのカストルとポルクスの神殿脇にあった水飲み用の巨大な花崗岩の水盤、1818年、ピウス7世によって現在の位置に移された。。

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●カストルとポルクスの像
◆説明
 カラカラの時代に造られたと思われるギリシア彫刻の模作「荒馬を御すカストルとポルクスの像」(5m)。もとは、カラカラが建てたセラピス神殿にあったものだが、南東のコンスタンティヌス浴場に移され、その後18世紀後半にピウス6世によって現在の位置に運ばれた。

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●ネロの祭壇
◆説明
 64年の大火の炎症区域を示す祭壇。大火を2度も経験したドミティアヌスが、火の神ウルカヌスに犠牲を捧げ、厄除け祈願をした場所でもある。サンタンドレア・アル・クィリナーレ教会の手前の建物の地下から遺構が発見されている。

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●四噴水の彫刻
◆説明
 セプティゾディウムが撤去されたあと、現クアットロ・フォンターネの十字路(四噴水)を飾るために、その噴水彫刻が再利用された。ここからは遙か3方にオベリスク(クィリナーレ広場、エスクィリーノ広場、トリニタ・デイ・モンティ広場)を望むことができる。

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